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翔ぶが如く 第1部第13回 正助の布石

(1990日)

安政6年(1859)1月、西郷吉之助は菊池源吾と改め奄美大島での生活を始めた。


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罪による罰ではなく、幕府から身を隠すための藩の措置なので、
生活に不自由はなかったのでしょうが、月照を残して生きたことや
安政の大獄での一橋派だった知り合いが心配でもあったでしょう。
家を覗きにきたガキを睨みつけ、まだ落ち着いていない心理を描写する、


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その頃、大久保は、島津久光が碁を嗜むと聞き、妻から基礎を学んだ。
が、それはドラマであり、実力があった上で吉祥院の乗願に弟子入りしたようだ。


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平田篤胤の『古史伝』を誠忠組で回し読みしていたが、久光の碁の相手である乗願に話題をフリ、久光から貸してくれということになった。
全37巻を1冊ずつにすることで長期とし、そこに手紙を挟み伝えたいことを伝えた。
怒りを招く可能性も承知していた。


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この頃、水戸藩士の過激派は大老井伊直弼を襲う計画を立てていた。
彼らと交流があった誠忠組は京都で幕府寄りの関白九条の襲撃を目論み、脱藩を決意した。
大久保は、久光の側近の谷村愛之助に別れを告げる形で、久光の耳に入るようにした。
谷村は元々は斉彬の小姓だったが斉彬の死により藩主忠義の小姓となった。
実際は忠義から久光へ伝わったようである。


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藩主忠義の名で誠忠組に「誠忠士面々へ」と脱藩を思い留まるよう諭告書が下された。


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有村俊斎は弟の雄助と次佐衛門が水戸藩士と共にしていたので反対するも
この後、大久保は「なら、刺し違えよう」と説得する。
そして、49名の連名で請書を提出した。


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翔ぶが如く 第1部第13回 正助の布石


大島の菊池源吾も島での生活に慣れ愛加那と結婚することになる。
サトウキビを舐めただけで少年が捕まり手足に枷を嵌められる現状に怒り、助けることもした。
この時点で、これから生まれてくる子が渡米して留学、京都市長になるなぞ誰も知り得ないことだった。










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