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翔ぶが如く 第1部第21回 慶喜の裏切り

(1990日)

文久3年(1863)6月27日に英国艦隊は鹿児島湾に入り、
7月1日に交渉決裂。2日、3隻の汽船が奪われることとなる。


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大久保一蔵が指揮し砲撃を開始した。
が、英軍のアームストロング砲の威力は凄まじく、
薩軍の砲台は炎上し、城下の1割が灰となった。


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薩摩軍の砲台が破壊されるが、
大久保は黒く塗った長樽を砲台と見せかけて「配備」した。
英国艦隊の死傷者の方が多く、艦隊は撤退を決断。両者痛み分けとなった。


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久光は、1里の距離を出す英軍の砲弾に驚く。
小松帯刀は、これまでの攘夷を「小攘夷」とし、これからは外国に学んで軍備を充実させる真の攘夷が必要で、「大攘夷」を久光に説いた。


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8月18日の政変。薩摩は会津と組んで長州を追い出した。
三条実美ら7人の公家の都落ちだった。


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喜界島には村田新八が流刑の身だったが、吉之助と文通をしていた。


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10月20日に江戸に入った大久保。老中の板倉勝静と交渉。
諸外国に日本の武士の強さを示したと功績として強調。
板倉は、「生麦事件の報復だろ」と無視したが、
大久保は、「長州藩を追い出したことで、幕府を朝敵にさせなかった」
と恩着せがましく語り、板倉に「2万5千ポンド貸してくれ」と切り出した。

板倉は拒否したが、同行した吉井が、ダメな場合はイギリス公使を斬って切腹すると板倉を恫喝した。


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(有村俊斎、大久保一蔵、小松帯刀、島津久光、大山格之助、伊地知正治、樺山三円)

元治元年(1864)正月。政治の中心が京都に移る。
将軍後見職の一橋慶喜と雄藩大名で参与会議が行われることとなった。
久光は上機嫌だった。従四位の官位と朝議参与の任命を得たためだった。
この酒宴は盛り上がった。



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その頃、吉之助は、子どもたちに勉学を教えていた。



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京での一橋邸が仮に設けられたが、警備を水戸徳川家から借りず、
町火消「を組」の新門辰五郎に200名集めさせた。彼らは喜んだ。

慶喜は参与会議前に松平容保と会い攘夷を方針とするとした。
さすがに容保も今になって攘夷はないと思ったが、
薩摩主導での会議を壊すための手段としての「攘夷」だと慶喜は説明。
容保としては慶喜に与すしかなかった。


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翔ぶが如く 第1部第21回 慶喜の裏切り


2月15日に参与会議が行われ、翌日、中川宮が自邸にメンバーを招く。

薩摩藩国父の久光、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂
宇和島の伊達宗城、会津の松平容保、幕府から一橋慶喜だった。

ここで慶喜が悪態をつきまくった。
場はしらけ、久光は憤慨するも、それが慶喜の狙いだった。

とても26歳の青年のすることと思えない「悪い奴」だった。






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