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太平記 第5回 危うし足利家

(1991日)

元亨(げんこう)4年9月19日(1324)、
足利高氏は19だったが、幕府への謀反を疑われる。
京の醍醐寺で日野俊基と会っていたのを通報した者がいたからだった。
六波羅からは助かったものの、侍所に捕まった。
内管領長崎円喜の指示によるものだった。


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(連署・金沢貞顕  御家人・足利貞氏)

高氏の父貞氏は、妻の兄にあたる北条貞顕(金沢)宅にかけつけた。
連署にも執権にも相談なく長崎円喜が息子の高資を使って捕まえたとのことだった。

いわば副執権の連署だったが、円喜に連署にさせてもらったこともあり、
せいぜい牢の高氏と会わせること位しかできないとした。


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失意だったが足利貞氏は次に幕府に向かい高時に会った。
が、高時は長崎円喜に相談せよ、だった。


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帰り際、その長崎円喜とすれ違う。
が、用件を言えず帰宅する。


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頭を下げなかったことを悔いたが、
理不尽な長崎と死を覚悟して戦う息子の決意を知った父は、

「其方、いかなることがあろうとも見殺しにはせん。」

と言う。
その父の愛に、高氏は感動し涙を浮かべる。


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侍所の審問だった。許可なく京に入って、日野俊基というテロリストと会ったか確認される。
六波羅の軍勢から逃れて佐々木道誉宅に逃げ込んだが、
その佐々木道誉が証人として現れた。
しかし、道誉は、事実関係は全て認めたが、横にいる高氏は別人だと言った。


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( _、北条守時(赤橋)、北条貞顕(金沢)、北条高時、長崎円喜、長崎高資)

後醍醐天皇から釈明書が届いたが、高時は受け取らず返すことにした。
奥州で安東家が2派に別れて争っているが、周囲を巻き込み朝廷や足利と
拡大するのを未然に防ぐため、赤橋と金沢の言を高時は採用した。

おまけに、安東2派の双方から金品を受け取っていた高資のことが明らかにされた。


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TSUTAYA 太平記 完全版 


長崎円喜は、帰宅後、息子に殴る蹴るの暴行を働いた。




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