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いだてん~東京オリムピック噺~ (37)「最後の晩餐」

(2019日)

1937年、近衛内閣となり、シナ事変となる。泥沼となった。
若者が中国大陸に出征する一方、
1940年の東京五輪を目指して、選手たちは練習する。
が、その矛盾に平然と済まれされるものでもなかった。


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河野一郎が東京五輪辞退を国会で述べていることが、
新聞にも掲載され、田畑は当初は反発したが、
嘉納治五郎に自ら説得することにした。
戦争終了後に再び招致できる可能性を残しておきたかった。


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嘉納は理解したとのかと思いきや、


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1938年春、エジプト・カイロでのIOC総会で
日本では無理だとの声が多かったが、嘉納は引き受け、
改めて承認となった。


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帰国の船の中で、バンクーバーから一時帰国する外交官の平沢和重と
「最後の晩餐」となった。

一番の思い出を語ろうとする。
羽田での予選での金栗。
1912年ストックホルム五輪での金栗と三島。
1932年ロス五輪・競泳での田畑の指導を思い出す。


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いだてん~東京オリムピック噺~ (37)「最後の晩餐」


が、昭和13年(1938)5月4日、洋上で帰らぬ人となった。享年77歳。
田畑は、平沢から嘉納のストップウォッチを受け取った。動いていた。


一度、「田畑、日本を任せた」という言葉があったと記憶しますが、


「お前に任せた、好きにしろ」なのやもしれません。





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