青天を衝(つ)け (12)「栄一の旅立ち」
(2021日)
文久3年(1863)秋、高崎城襲撃計画を前に栄一は父に勘当してくれと頼んだ。
共に頭を下げてくれた千代に感謝するも、
うたを抱いて欲しいとの願いを聞き入れなかった。
栄一と喜作は江戸に向かった。が、既に幕府に追われる身となっていた。
幸い、自前の一橋家家臣を探していた平岡円四郎に捕まった。
武士になれと誘われたが相手が分からず断る。
後で一橋家と知り驚くが、気が変わったら来いと平岡は言ってくれた。
円四郎が帰宅すると、川路聖謨が来て、水戸浪士が命を狙っていると教えてくれる。
10月、尾高の家で謀議となる。が、長七郎が猛反対した。
薩英戦争で薩摩が攘夷を捨てたこと、大和で天誅組の変があったが壊滅したこと、
8月18日の政変で攘夷派が京から追われたと、時勢を語った。
孝明天皇が薩摩会津に同意し公武合体路線で長州や攘夷派公卿を排除したため、
倒幕を目的とし坂下門外の変で仲間を喪った長七郎は、
報われない死をさせまいと自らの屍を超えて行けと身を差し出した。
男たちの計画に何も言えなかった家族だったが、長七郎のおかげで助かった。
証拠書類を燃やす。
栄一は「攘夷」という流行り病から我を取り戻した。
うたを抱き、自らの命を大切にすることを誓った。
計画は白紙となったが、幕府に目を付けられているので、家を離れることにする。
父には売上から1両10万として1600万円ほど持ち出したことを詫びた。
が、父はさらに同額以上の金を持たせてやったのでしょう。
文久4年(1864)1月、慶喜の入京に平岡も随行することになる。
帰らぬ人となることは知る由もなかった。
NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け
慶喜と円四郎は順動丸で京へ向かった。
文久3年(1863)秋、高崎城襲撃計画を前に栄一は父に勘当してくれと頼んだ。
共に頭を下げてくれた千代に感謝するも、
うたを抱いて欲しいとの願いを聞き入れなかった。
栄一と喜作は江戸に向かった。が、既に幕府に追われる身となっていた。
幸い、自前の一橋家家臣を探していた平岡円四郎に捕まった。
武士になれと誘われたが相手が分からず断る。
後で一橋家と知り驚くが、気が変わったら来いと平岡は言ってくれた。
円四郎が帰宅すると、川路聖謨が来て、水戸浪士が命を狙っていると教えてくれる。
10月、尾高の家で謀議となる。が、長七郎が猛反対した。
薩英戦争で薩摩が攘夷を捨てたこと、大和で天誅組の変があったが壊滅したこと、
8月18日の政変で攘夷派が京から追われたと、時勢を語った。
孝明天皇が薩摩会津に同意し公武合体路線で長州や攘夷派公卿を排除したため、
倒幕を目的とし坂下門外の変で仲間を喪った長七郎は、
報われない死をさせまいと自らの屍を超えて行けと身を差し出した。
男たちの計画に何も言えなかった家族だったが、長七郎のおかげで助かった。
証拠書類を燃やす。
栄一は「攘夷」という流行り病から我を取り戻した。
うたを抱き、自らの命を大切にすることを誓った。
計画は白紙となったが、幕府に目を付けられているので、家を離れることにする。
父には売上から1両10万として1600万円ほど持ち出したことを詫びた。
が、父はさらに同額以上の金を持たせてやったのでしょう。
文久4年(1864)1月、慶喜の入京に平岡も随行することになる。
帰らぬ人となることは知る由もなかった。
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慶喜と円四郎は順動丸で京へ向かった。
2021-05-03 00:00
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