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青天を衝(つ)け (18)「一橋の懐」

(2021日)


元治元年(1864)12月、天狗党討伐の為、慶喜、後に共にパリへ行く昭徳(昭武)、篤太夫も出陣、敦賀に向かった。


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(藤田小四郎、武田耕雲斎)

成一郎が密命を帯び、先に慶喜の手紙を渡した。
自ら征伐しなければならないから投降しろという勧告だった。
2人が慶喜に刃を向けることはあり得なかった。


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(田沼意尊)

慶喜は、田沼意次の曽孫である天狗党征討総督の意尊に、
耕雲斎らを引き受けたいと言ったが、田沼は公平な処置をすると拒否。
が、後日、352人の処刑を断行した。


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篤太夫は小四郎を焚きつけた自分を責めたが、
成一郎は「うぬぼれるな」と一喝。

そして、敦賀で見てきた痩せ細った水戸の者たちの姿を思い出し、
攘夷はどうでもいい、これからは一橋家を護るために生きると宣言した。
転向ではあるが、口先の方便ではなく徹底する人間だった。


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(小栗忠順)

渡米、地球1周したキレ者がフランス式の軍備の導入を将軍家茂に進言し了承。
また横須賀製鉄所を作り、近代日本の礎を作った。


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阿部は財政の心配をしたが、小栗はコンパニーを作ると言い出した。


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篤太夫は新たに西の領地8万石を回って農兵数百を集めると慶喜に豪語。
薩摩や幕府に侮られぬためだとし、慶喜の了承を得、従弟の須永伝蔵と出発。
駕籠に乗る身分となった。


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が、現地に行き募集しても誰も応じなかった。
しかし、剣で勝つことで認められ始めたようだ。


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また、備中にある興譲館館長だった漢学の阪谷朗廬と対話し、
見識が認められ、若い者5名が篤太夫に付いていくことを決断。
この時、2歳となる芳郎がいたが、後に誕生する栄一の次女琴子と結ばれる。
日露戦争時の大蔵次官、そして大蔵大臣となった。


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篤太夫は代官が農兵募集の妨害していることを知り、恫喝。
これにより、志願者450人を超え、晴れて京に戻った。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


慶喜に挨拶した篤太夫は、一橋の懐を豊にすることを提案。
摂津播磨の米で5000両、播磨の木綿、火薬の材料となる備中の硝石に目をつけた。

慶喜は亡き父斉昭と重なり思い出した。
栄一は、斉昭が雷神の如きと思っていたなど歯に衣着せず思いを語る。
慶喜は、円四郎が不思議な者を押し付けたと喜んだ。

この日より終生の君臣関係となったのでしょう。






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