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青天を衝(つ)け (19)「勘定組頭 渋沢篤太夫」

(2021日)


慶応元年(1865)、渋沢篤太夫は一橋家の懐を豊にすることを考えていた。


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(小栗忠順 栗本鋤雲)

幕府では勘定奉行の小栗が米国から持ち帰ったネジを手にしながら
コンパニー設立を考えていた。


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(新納刑部)

元治元年(1865)3月に薩摩藩遣英使節団と15名の留学生が渡英していた。
新納は使節団団長で、五代才助と2年後のパリ万国博覧会への薩摩藩としての参加を考えていた。
五代はモンブラン伯爵と話を進めるとした。


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9月、駐日英国公使ハリー・パークスは、4か国連合艦隊を兵庫に集結し兵庫開港と条約勅許を求めた。
幕府から松前と阿部の2人の老中が交渉し、独断で話を進めた。


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(松前崇広 阿部正外)

が、当然に朝廷側は激怒。ドラマでは正親町三条実愛が2人の罷免を慶喜に命じた。


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(正親町三条実愛)

慶喜は、孝明天皇に勅許を求めに参内。
正親町三条は、将軍を辞職せよと慶喜に迫った。 

慶喜は正親町三条が薩摩と結託していることを問題視し、
切腹を使った逆恫喝。


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孝明天皇は席を外させ慶喜に勅許を認めた。


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この頃、越前福井まで足を運んだ大久保一蔵。
上京を促し、幕府を見切ろうと熱弁。


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篤太夫は勘定組頭となり成果を出していたが、
成一郎から「お前は懐でも守っておれ」との捨て台詞で別居することとなった。
慶喜の苦悩を大局から分かっていたのは成一郎だった。


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(大久保一蔵、五代才助)

慶応2年(1866)1月に薩長同盟なった。
五代は帰国後、大久保から長州への銃の手配を頼まれた。
グラバーとは話がついていて、ミニエー銃を用意することとなった。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


老中板倉勝静の報告により、家茂は失意。
倒れることとなった。





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