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青天を衝(つ)け (41)「青春はつづく」(最終回)

(2021日)


大正7年(1918)、敬三は、仙台二高を卒業し東京帝国大学経済学部へ入学。


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自室は生物の研究室だった。


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ワシントン会議への出席を渋っていることに是非とも行くべきだ、とした。
が、原敬は「移民問題はアメリカの内政問題」とし口を出すべきではないと返す。
米国が日英同盟を解消させようとしていると危機感があった。

敬三は、卒業後横浜正金銀行に勤めた。
第一銀行ではなくまずは外を見て見たいと栄一に伝える。


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(幣原喜重郎、加藤友三郎、徳川家達)

栄一はワシントン会議に合わせて4度目の渡米をした。
日本人移民の件を議題に入れるよう要望。
幣原から原が暗殺されたと聞く。
移民の件は議題とならなかった。

翌1922年、敬三は岩崎弥太郎の孫の木内登喜子と結婚。
大久保利通の4男利賢が支配人を務めるロンドン支店で勤務していた。


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8月24日に首相となっていた加藤友三郎が病死し外相の内田康哉が臨時に首相を兼任していた大正12年(1923)9月1日正午に関東大震災となる。
篤二は駆け付け、栄一は喜んだ。


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栄一は避難者の救護所を開くと要路へ伝えるよう指示。自らも動こうとした。
子どもたちは社会主義者に扇動された貧しい者が裕福な家を襲うかもしれないので、
血洗島に避難するよう勧めたが卑怯だと拒否。

翌、9月2日には第2次山本権兵衛内閣となる。
第1次では軍部大臣現役武官制を廃止するもシーメンス事件で総辞職。
が、娘婿財部彪や宮内大臣牧野伸顕ら薩摩閥の活動がかない大命降下。
帝都復興院総裁に内務大臣の後藤新平が就任。
が、山本内閣は不運にも虎の門事件となり慰留されるも辞職する。

1924年、アメリカでは既に中国系移民は禁止していたが日本人移民も禁止とされた。


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1925年、ロンドンで勤務する敬三に長男が誕生。
栄一は「雅英」と命名した。現在もご健在である。


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1931年夏、中国で大洪水が起こり、栄一は91で水災同情会会長となる。
副委員長の横浜正金銀行頭取の児玉謙次がラジオで募金を呼びかけてくれと頼んできた。


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栄一は中国に日本が友人だと伝える好機だと快諾した。
関東大震災を思い出し、助け合いましょうと切にお願いする。
聴衆は感に入る。募金は役所や商工会議所で受け付けられ、大金が集まる。
が、9月18日からの満洲事変により拒絶となった。


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11月11日、91歳にて永眠。大往生だった。

翌昭和7年1月、歌子が死去。
同年10月、篤二も他界。悲しみが続いた渋沢家だった。


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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


昭和19年に日銀総裁、翌20年に幣原内閣で蔵相を務める。
義理の母が幣原の妻と姉妹で岩崎弥太郎の娘だった。
財閥解体の指定から外れることも可能だったが、敬三は受けた。
祖父栄一が言った優しい男だった。
民俗学者としても事績を残した。





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