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鎌倉殿の13人 (38)「時を継ぐ者」

(2022日)


元久2年(1205)閏7月19日、実朝を人質にしていた時政邸を軍勢が囲んだ。


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泰時や時房が祖父の助命を求めるも、義時は聞かない。
八田知家は義時を理解し、時政の首を刎ねるよう勧める。


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時政はりくを京へ逃がすことにした。娘きくと婿平賀朝雅を頼ればいいとした。


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時政は実朝を解放することにする。
時政は残り死ぬつもりだった。
が、八田知家に助けられる。


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政に私情を挟まないとの義時の覚悟に対し、
政子は娘として命乞いをしてみせた。

その後、実朝も義時に頭を下げる。が、義時は言質を与えない。
梶原景時、比企能員、畠山重忠、皆、謀反ということで討ち取られていた。
しかし、文官の言により伊豆で過ごすことで済む。


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義時と父の今生の別れだった。
翌20日、時政は鎌倉を去るここととなる。


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3人で昔話を懐かしむ。


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執権となった義時はまず平賀朝雅の首を取ることにした。
表向きは鎌倉殿になろうとした謀反の罪だったが、
北条政範を毒殺し罪を畠山重保に転嫁したことと、
そこから畠山重忠の乱と時政の追放に至った一連の落とし前だった。


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その後、きくは藤原国通と再婚。りくも京に行くことになる。
この局面での母子は悲劇だが、京に鎌倉も無視できないネットワークを築く。


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執権に就任した義時のお披露目だった。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



が、後鳥羽上皇は京の地で平賀朝雅を許可なく殺されたことにより、
許なさい、と決められた。
対象は幕府ではなく、義時だった。





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