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翔ぶが如く (2ー14) それぞれの薩摩

(1990日)前回、江藤新平(隆大介)を「晒し首」とした。
隆の生首は笑っているが、ネットで出回る写真は悲しい。
明治7年(1874)4月13日のことだった。

2月に勃発した「佐賀の乱」だったが、同時並行で、大久保は「台湾出兵」を進めていた。


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大久保、岩倉、大隈、台湾出兵を決める。


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が、前年に「朝鮮派遣問題」で国を富ませることが先、と多くを下野させ、
舌の乾かぬ内での「台湾出兵」、江藤への前近代的な処刑と
木戸は大久保へ半ギレとなり、5月に下野することとなる。



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この頃、岩倉使節団で渡欧しフランス留学に切り替えた村田新八が帰国する。
大久保は村田に次期指導者として期待した。


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この時期、海老原穆(元薩摩藩士)が集思社を作り、政府批判を行う。
そこへ、江藤の首を確認してきた矢崎も加わることとなった。


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村田新八は鹿児島へ帰った。手紙を受け取った大久保は茫然だった。
村田は、アコーディオンを西郷に教えるために鹿児島へ残ることとした。
西郷と共に島津久光から処分を受け、喜界島での生活をしたりもした仲だった。



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大久保の正妻 満寿と利武、雄熊。
上の2人の子、利和と牧野伸顕はアメリカ留学後東京での生活。


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留学中の大山巌(西郷の従弟)が帰ってきた。
吉井友実が強引に留学先まで来て、西郷を政府に連れ戻すよう説得され10月帰国する。
右から大山巌、村田新八、西郷小兵衛。
立っているのが、菊次郎。

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NHKオンデマンド 翔ぶが如く 第2部第14回 それぞれの薩摩

が、大山巌は西郷に追い返され、東京に向かう。
大久保邸で、従道家族と食事をする。

この年、明治7年(1874)12月、台湾から帰国したばかりの従道だったが、
大久保も10月31日に北京で台湾出兵の正当性を認めさせ50万両の賠償金を得て、
11月に帰国したばかりだった。

右から大山巌、大久保の長男利和、正面が次男牧野伸顕でしょう。
左は従道夫妻と長男従理。

維新後に「隆道」を間違って「従道」と登録され使うこととなった名だったが、
息子にそのまま使っているところからも気に入っていたようだ。



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