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葵(あおい) 徳川三代 総集編 第2回 征夷大将軍

(2000日)

石田三成らを処刑して半月後、
慶長5年(1600)10月15日、家康らは大阪城に入り、秀頼と淀殿に挨拶した。
この段階では、淀はご満悦だった。
秀頼の父が三成ならこの展開は考えにくい。


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秀頼(7歳)に挨拶する、家康、秀忠(三男)、忠吉(四男)


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秀忠の継室、お江。(正室は秀吉の養女だが、6歳で早世している)
お江は浅井三姉妹の末っ子で、1573年の浅井滅亡の年に産まれている。
文禄4年(1595)に6歳下の秀忠と再婚する。
長女、千姫は秀頼に嫁ぎ、次女、珠姫は3歳で前田家へ。
三女、勝姫は、松平忠直(結城秀康の子、家康の孫)に嫁いだ。


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秀吉・秀次の後、空位になっていた関白を
九条兼孝が就いたことに、淀殿、激怒。大阪城で家康に問い詰める。


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慶長8年(1603)2月、将軍宣下の詔。


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同年、7月、娘の輿入れで大阪城に向かった。
再会を喜ぶ三姉妹。お初(次女)淀殿(長女)お江(三女)



慶長 9年(1604)7月、家光が誕生する。が、お福(後の春日局)が育てることとなる。
慶長10年(1605)、秀忠が第2代将軍となる。
慶長11年(1606)、お江、次男、忠長が誕生。自分で育てると秀忠を無言で恫喝する。

が、慶長12年(1607)不幸が続いた。
3月、家康の四男忠吉、死去。享年26。
4月、家康の次男結城秀康、死去。享年33だった。


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この頃、病の家光を見舞ったお江だったが、家光はお江を認識していなかった。
お福(樹木希林)に懐く家光。
極道の目になるお江だった。



慶長16年(1611)家康は上洛し、二条城に秀頼を呼び出すことにした。
淀殿は反対だったが、「千姫の祖父に挨拶する」と秀頼は承知した。


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NHKオンデマンド 葵(あおい) 徳川三代 総集編 第2回 征夷大将軍

左が高台院(秀吉の後室、北政所ねね)、
後ろには、加藤清正や浅野幸長がいた。関ケ原では家康に味方した者たちだった。

家康から盃を向けられた秀頼(尾上菊之助)『西郷どん』では月照役で、西郷と心中する。

主従が逆転した歴史的瞬間だったと、
突然、水戸光圀(中村梅雀)が登場し、解説した。

何故か、助さん、格さんが、女性だった。

ジェームス三木、絶好調でした。






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家康の駿府城跡から“因縁”秀吉の天守台が出土、金箔瓦約330点も【産経news】


【産経news】家康の駿府城跡から“因縁”秀吉の天守台が出土、金箔瓦約330点も



駿府は16世紀に今川領から武田領となり、
1582年に織田徳川連合軍で武田を滅ぼした後、家康が浜松城から拠点を移したそうだ。


そして天正13年(1585)に家康が駿府城をリニューアルしたようだ。

次に、天正18年(1590)に秀吉系の中村一に移ったようだ。
この中村時代の増改築で秀吉の支援があったとのことだ。

それが、再び、家康に戻ることとなった。


記事のタイトルで、家康の秀吉ゆかりのモノを使って権勢を見せつけるためかと思いましたが、そういう悪趣味は美意識に反するのでしょう。



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