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草燃える 総集編 第4回 頼家無惨

(1979日)

建久10年(1199年)1月13日、頼朝急死により、18で頼家が第2代鎌倉殿となる。


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争いがあれば、即決裁判で所領没収。親しい者に分け与えた。
当然に、不満となり、わずか3か月後に13人の合議制となった。

13名の中に安達盛長がいたが、息子景盛の妻を拉致して妾にするなど、
頼家に分別はなかった。


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梶原景時(左)、頼朝を「石橋山の戦」で救い重用されたが、頼家の代となり、
66人の景時排斥の連判状が提出され、正治2年(1200)1月20日、追放となった。
中央、梶原景季(宮崎達也)
『翔ぶが如く』の野村忍介で警察署長だったが西南戦争を戦う。



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建仁3年(1203)6月 阿野全成(頼朝の異母弟) 処刑。
頼家の叔父だった。


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全成の妻は阿波局(北条時政の娘で政子の妹)だった。
実朝の乳母をしていた。



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が、将軍頼家は大量の血を吐き、8月末に危篤状態となった。
左から、北条時政、比企能員(佐藤慶)、北条義時

比企一族は頼朝の幼少期から支え信頼されていた。
が、頼家は比企を重視し北条を軽んじた。
この場で、時政は頼家回復の祈願を口実に比企能員を自邸に招く。


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9月2日、比企一族、滅ぼされる。
右の比企宗員(能員の子で頼家の近習)に抱かれている子が、頼家の長男一幡(いちまん)。
政子にとっては孫だったが、炎の中の人となった。
髪の乱れた女、比企重子(能員の妻)と娘の若狭局(頼家の妻で一幡の母)

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政子は義時(弟)に言う。

「あの人たちには死んでもらうしかなかった。頼家が死ぬと決まっている以上は」

義時と政子は、頼家の死の前に頼家を死んだことにし、
朝廷に、実朝への将軍宣下の使者を出し、頼家の妻子を含め比企一族を殺した。


ところが、だった。頼家が、回復。
事情を聞いた頼家は激怒したが、どうしようもなかった。


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伊豆国修禅寺に向かう日、涙する母を見ようともしなかった。



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NHKオンデマンド 草燃える 総集編 第4回 頼家無惨


元久元年(1204)7月18日、享年23。
典型的な2代目で妻子を殺され回復するという愚か悲惨な末路でした。


『愚管抄』では抵抗したようだ。

「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」




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