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北条時宗 総集編 後編 蒙古(もうこ)襲来

(2001日)

文永8年(1271)、フビライは3度目の国書を博多に送ってきた。
第3代執権北条時宗の兄、時輔は「国を開け」と主張。


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朝廷は、兄弟の対立を利用し時輔を朝廷の使いとしてフビライの重臣趙良弼と接触させた。


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当然に、時宗激怒。

文永9年(1272)2月11日、鎌倉にて時宗の子が襲撃される。
北条時章・教時兄弟の謀反とし時宗は滅ぼした。
また、京都にいた時輔を殺すことにした。父時頼の遺言でもあった。


6度の使節を経、フビライは開戦を決意。文永11年(1274)10月5日、対馬侵攻。
20日に博多に上陸、が、21日に撤退した。


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勝った気がしなかったところ、半年後。蒙古の使者が来た。
なんと、時輔は生きて通訳を果たしていた。
時宗は使者を斬ることとし、時輔が訳した。


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無学祖元(禅宗僧侶)は、時宗を診断、5年の命と予言する。


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文永10年(1273年)、北条実時(右)「石の砦の策」を安達泰盛に託して引退。
僧侶農民商人も力を合わせて防御体制を構築した。


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聖寿節(フビライの誕生日)、右にマルコポーロ


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その日、群衆に交じった佐志房(藤竜也)は、文永の役で失った3人の息子の復讐を果たそうとした。
杖が槍の偽装だった。握り部分を外す。
わずかにフビライの頭を外し、捕縛される。
フビライは生かすつもりだったが、部下が勝手に殺し、
理由を聞いたフビライは佐志房を勇者とし丁重に葬るよう指示した。


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弘安4年(1281)となる。


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北条実時の「石の砦」で守った。


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その頃、時宗は病に苦しんでいた。


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喧嘩の後の、安達泰盛と平頼綱。
喧嘩とはいえ、殺し合いのところを時宗が間に入り、時宗が倒れた後のことだった。
友情は芽生えず、後に「霜月騒動」にて、安達一族は自害・討ち死。
頼朝以来の有力御家人はいなくなり、得宗独裁体制の確立に平頼綱は寄与する。


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NHKオンデマンド 北条時宗 総集編 後編 蒙古(もうこ)襲来


時輔を助けた弟の宗政だったが、後ろから刺された。



時輔が生きていたことや、時宗の母が毛利季光の娘としていることなど、
フィクションは多いが当時に全話見るべき作品だったのでしょう。

とはいえ、前編・後編の計3時間18分を7時間位の倍以上かけて鑑賞しました。
作業に加え、それぞれの人物の関係や役職、調べながらの鑑賞に時間がかかりました。
軽いようで重厚感ある作品でした。





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