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翔ぶが如く 第1部第7回 篤姫お輿入れ

(1990日)

嘉永7年(1854)7月、島津斉彬の五男虎寿丸と近衛忠煕の娘信君と婚約により、
お由羅騒動(高崎崩れ)による処罰を受けた者は全て赦免されることとなる。
斉彬派の者たちは喜んだ。


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が、閏7月、その虎寿丸が死去。5歳だった。
既に息子4人娘2人が他界していた。残った子は娘3人となる。


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(伊藤才蔵、有村俊斎、大山格之助、樺山三円、西郷吉之助)

斉彬派の青年たちは前藩主斉興の側室由羅の呪いであると憤慨した。
さすがに5人の男児が次々と他界し、また高崎崩れで多くの人間が死んでもいるので、
彼らは禍根を絶つことを決意し「誠忠組」を結成、頭は西郷となる。
上屋敷の床下を調査をする彼らだった。



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安政2年(1855)10月、阿部正弘は老中首座を堀田正睦に譲り、老中次座となる。
左の堀田が「我ら3人の蘭癖が・・」と言い爆笑となる。


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翌安政3年(1856)、篤姫の第13代将軍徳川家定への輿入れが決まり、
7月7日、近衛忠煕の養女となり、名を「敬子」とする。
吉之助は嫁入り道具を揃える役目もあった。

斉彬は、輿入れを側面援助するため、日本初の蒸気船雲行丸(うんこうまる)を
隅田川に登らせた。人々は沸き立った。


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NHKオンデマンド 翔ぶが如く 第1部第7回 篤姫お輿入れ


斉彬は、この時期に将軍家定の病状を篤姫に語った。
篤姫が斉彬の養女となったのが嘉永5年(1852)3月で、
翌年のペリー来航と第12代将軍家慶の死の前の段階から、
4年以上も家定のことを篤に隠して接していたことになる。
幾島は席を外し吉之助は泣くしかなかった。




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