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翔ぶが如く 第1部第12回 吉之助入水

(1990日)

安政5年(1858)11月、月照は吉之助の家に到着するが、藩庁が預ることとなった。


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が、左右田宗之進の月照保護の言も空しく重臣会議で、「日向送り」と決まった。
幕吏に見つかったら大変とのことで、「藩境で殺せ」との意だった。


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吉之助は後ろから斬り、自決するつもりだったが、月照は入水を選んだ。


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(森山新蔵、平野国臣、大久保)
筑前福岡から月照の警護をしていた福岡藩士の平野も同じ舟に乗っており、
中で飲んでいたが、2人がいないことに気づき、暗く寒い中、助けようとした。
が、薩摩までの旅路で消耗していた月照は死亡。吉之助だけが辛うじて助かる。

京へ向かう平野に森山は5両の餞別を渡し、大久保と礼を言って見送った。



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前々藩主島津斉興は、吉之助が斉彬の見込んだ者ということで、
別人にさせた。墓と別の死骸も埋めて、幕府が墓を掘り返すことも想定してのことだった。



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12月半ばに回復。大久保より安政の大獄の情勢など聞き、
死ぬ場合ではないことを諭され、朝鮮人参を貰う。

奄美大島行きを命じられたが、そこで殺されるかもしれないと、
吉次郎や大久保は心配したが、
西郷は、「天に生かされたので」と、この頃から「天」を意識したのでしょう。


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翌、安政6年(1859)1月2日、正月、西郷は大島へ向かう。
出航前、山川港にて大久保に初の指令所を書く。
が、実際は親友の伊地知正治が大久保の手紙を預かり、この場で西郷が返書を書いた。


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1月、大島龍郷村に到着。


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翔ぶが如く 第1部第12回 吉之助入水


この頃、薩摩の大久保一蔵は、非力を痛感し権力を意識する。
安政の大獄、斉彬の死と藩情勢の変化、吉之助の変化を見てきた。
自分自身もお由羅騒動で謹慎を経験した。

この年、大久保は国父・島津久光の相手となるため、碁を学び始めた。

嫌悪する由羅の系列とはいえ、目的のための手段と割り切った。





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