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徳川慶喜 第1回 母の不在

(1998日)

年内で『翔ぶが如く』を見終えようと予定を組みましたが週4ペースはきついので、
別の作品を入れることにしました。幕府の視点で評価の高い『徳川慶喜』を鑑賞することにします。


徳川慶喜、幼名・七郎麿(しちろうまろ)は天保8年(1837)に水戸藩の江戸藩邸で生まれたが、すぐに水戸に移され母を知らずに育った。

父は、第9代藩主徳川斉昭、他の幕末ドラマでは老害の扱いだが、
この作品では英邁な君主としている。



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天保15年(1844)、斉昭は幕府に理由なく呼び出された。訝る3人。
戸田忠敞(ただあきら)は執政、右は側用人の藤田東湖。
東湖は後に西郷隆盛が尊敬し、安政の大地震で死去する。


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7歳の七郎麿はその頃、「新論」で高名な会沢正志斎から学んでいた。

江戸に向かった斉昭は、隠居謹慎命令が幕府より下った。
役職は無いものの副将軍という俗称で呼ばれていたが、老中に嫌われ
「7つの大罪」が列挙された。
寺を潰し僧侶を追い出したこともあったが、幕府は承知していたことだった。
罪ではなく政争であり、藤田東湖や戸田忠敞など蟄居を命じられる。


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斉昭は隠居となり、即日、長男の慶篤が第10代藩主となる。
斉昭は中屋敷に移るが、正室の吉子には上屋敷に残って慶篤を支えるよう指示。
吉子は有栖川宮織仁親王の娘で霊元天皇の曽孫だった。
吉子の姉が第12代将軍家慶の正室でもあった。
2人は有力上士の結城寅寿が幕府と通じる裏切り者と理解していた。



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藩内に怒りが溢れる。
後に家老となる安島帯刀は堂々と、「斉昭様に謀反の罪なく陰謀」と主張。



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藩士の怒りを鎮める2人。
弘道館の初代教授頭取・会沢正志斎(せいしさい)と家老・鈴木重棟(しげむね)




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藩主慶篤の挨拶を代わりに行う、結城寅寿。
   ・僧侶の処遇を戻す
   ・鉄砲をそろえない
   ・弘道館で幕府の方針に異を唱えないこと
   ・天狗派の道楽、財政厳しい中、東湖らが弘道館で費やした
と、4点語る。


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徳川慶喜 第1回 母の不在


その頃、七郎麿は出会った女の子から服を持ってこさせ女装する。
堂々と城を脱走。江戸までの遠足を目論んだ。
後の第15代将軍徳川慶喜、父にとっては末楽しみな少年時代だった。





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