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徳川慶喜 第10回 抗争のはじまり

(1998日)

前回までは、架空ネタが多く楽だったのですが、今回、急に政治色が濃くなる。

安政3年(1856)、水戸藩藩主徳川慶篤と前藩主斉昭に毒が盛られるという事件が起きた。
幸い、2人の命には至らなかった。


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藩主慶篤は、弟の慶喜を水戸藩小石川上屋敷に呼び、
毒殺の犯人は「天狗」の連中で、父斉昭の意向、と言った。

慶喜は否定したが、慶篤の疑いは固かった。
幕政参与になった斉昭だったが、老中首座の堀田を「異国の手先」と罵り、
登城停止となり、その腹いせに親幕府の藩士を排除していたからだった。


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慶喜は、駒込中屋敷にいる斉昭を訪ねた。

毒を盛る指図をした犯人は谷田部兄弟で高松藩に身をよせていた。結城虎寿が黒幕だった。
高松藩は水戸藩の支藩で藩主の松平頼胤を慶篤後の水戸藩主にし実権を得るという暗殺理由があった。
また、将軍継嗣問題で、「一橋派」と将軍家定正室の縁組を阻止する目的もあり、
老中首座の堀田と彦根藩主の井伊直弼との「南紀派」に連携して親幕派だった結城虎寿が藩主父子の暗殺を企んだと、斉昭は分析した。



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その頃、京都では、関白・鷹司政通が公家での事情通だった。
攘夷が本意ではあるが、通商も現実だとした。
妻が斉昭の姉清子で、斉昭は手紙で「次期将軍を慶喜に」と伝えてもいた。


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左大臣の九条尚忠は、娘が孝明天皇の女御で、鷹司政通から幸経を養子に迎えていた。

 
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九条家に所司代から斉昭と慶篤に毒が盛られたと聞いた幸経が実父母に知らせに来た。


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鷹司政通と斉昭の姉清子は安堵する。



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7月21日、ハリスが日本に到着。



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徳川慶喜 第10回 抗争のはじまり

が、外国人が、駐日公使として日本に居住することなぞ、条約では定めていなかった。
対策会議となる。


不完全情報ゲームで、先の読めないことばかりだった。
外国との駆け引き以前に、この時代の寿命が与える影響も大きい。
翌年の阿部正弘、1858年の将軍家定や島津斉彬の死は予測しえなかった。

都合の良い推測や願望で対処できない時代に160年も前から入っていた。






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