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翔ぶが如く 第1部第17回 同士討ち 寺田屋事件

(1990日)

文久2~3年の1年間に京に入った大名は40、どの藩も1000人前後で来たという。
藩邸で収容できなければ、近くの宿、大寺院を借りた。

文久2年(1862)3月16日、島津久光は兵を率い薩摩を出発した。
4月6日に姫路に到着する。
西郷吉之助らの逮捕命令が出され、大久保は先に京に向かった。


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その頃、京の近衛忠煕邸に岩倉具視が訪ねていた。岩倉は近衛に久光を大歓迎するよう説得。
以前、大久保に久光の上京に難色を示したが、歓迎の手紙を書いた。

9日に明石に入った久光は手紙を受け取り、歓喜する。


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小松帯刀からの情報で捕縛より先に大久保は吉之助を連れ出した。
一緒に死のうとしたが、吉之助は叱り、大久保に逮捕させた。


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大久保が西郷を捕まえ、久光を前にした。が、久光に取り入った中山尚之助が仕切っている。
下関から同行した村田新八と森山新蔵も薩摩へ帰国させることになった。


久光から遠ざけられたと諦めた大久保だったが、薩摩兵の京での宿の手配の命を受けた。
中山を通してだった。
後に、この中山は明治9年に大久保・木戸暗殺の容疑で警視庁に逮捕、獄中死となる。


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13日、京に入った久光は、16日に近衛と会見する。(後ろは、中山尚之助と小松帯刀)
近衛忠煕は岩倉具視の周旋だと諭した。
横には、条約勅許に反対した88卿の1人三条実愛がいた。

ここで、近衛は二条城や所司代を襲撃しようと企む浪士の鎮圧を久光に約束させた。


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話を聞いた大久保は、有馬新七を説得するも、有馬も諸藩の士との立場があり、無駄だった。


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(森山新蔵、西郷吉之助、村田新八)

「下関で待て」との命に反し、京に向かった3人は薩摩の山川港にて、船での軟禁となった。


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計画の決行日が迫ったことを知った久光は、説得に応じねば上意討ちとした。
誠忠組で同士討ちさせることを久光は考え、中山がメンバーを選んだ。
剣術に優れた鎮撫使9名が4月23日夕刻、伏見の宿、寺田屋に向かう。

1階にリーダー有馬新七がいた。大山格之助が情で説得する。
が、もはや有馬は戦わざるを得ず、斬り合いとなった。


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そこに、元豪商森山新蔵の子、森山新五左衛門がいた。重傷で後に切腹。
武士よりも武士らしく生きようとしていた若者だった。


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その頃、2階は盛り上がっていた。


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翔ぶが如く 第1部第17回 同士討ち 寺田屋事件


壮絶な死を遂げた有馬新七(内藤剛志)は、大山格之助(蟹江敬三)に2階の者を助けるよう笑って死んだ。
「頼む」という以心伝心だった。
それに応えた格之助は血まみれで裸になり投降するよう、泣きながら「お願い」した。

感無量の適役でした。




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