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徳川慶喜 第12回 日米通商条約

(1998日)

安政3年(1856)7月にハリスは下田に来航し、翌年5月に下田協定となる。
そして7月、アメリカ軍艦一隻が来たことにより、
幕府は、引き延ばしていたハリスの江戸出府と将軍謁見を許可した。


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幕府の譲歩に怒る幕政参与を終えた徳川斉昭は息子の慶喜に、
「何か手を打て、ワシはスデに手を打った」
と期待する。


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太閤となった義兄の鷹司政通に水戸藩京都留守居役から手紙を渡した。
斉昭は、以前は開国止む無しのは承知していたが攘夷を強く主張した。
「出来る限り良い形で国を開くため急がず慎重に」ということで、
朝廷より「条約時期尚早」と言って欲しいとのことだった。

また、「次期将軍は12歳の慶福ではなく21歳の慶喜に」とのことに、
鷹司政通は無論、同意する。


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10月21日、ハリスは13代将軍家定に謁見した。


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(岩瀬 井上 堀田 川路)

老中首座の堀田宅にまずは集まった。
「江戸に領事」「民間人に自由に貿易」「港を増やせ」
とのハリスの要求に、岩瀬と井上が交渉役となる。


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堀田が一橋邸を訪れ、斉昭の建白書を無かったことにしたいと慶喜に見せた。
蝦夷地の開拓で予算100万両、罪人や次男三男を使うことを書いていたようだ。

ドラマでは触れられていないが、斉昭の計画では、
先住民の男性を労役にし女性には本土の子をうませ、
子は公共施設で共同で育てることまで考えていたようだ。



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(井上、岩瀬)

安政5年(1858)となる。この期に及んで、条約締結にあたり、
2か月待って朝廷に老中が行って説明するとの幕府側の説明にハリスがキレる。


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慶喜は、斉昭に2度と京都と文通しないことを約束する書面を求めた。
堀田へ提出して、京都で攘夷感情を煽った斉昭の責任問題を終わらせるためだった。
斉昭は同意せざるを得なかった。


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京都では、岩瀬が太閤・鷹司政通と関白・九条尚忠にご説明に上がり
朝廷に3万、太閤に2千両、関白に5千両を約束した。
が、岩倉具視らが条約勅許に反対し立ち上がった。


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徳川慶喜 第12回 日米通商条約



堀田ら江戸へ手ぶらで帰って対策会議となる。
岩瀬は全権を辞めると言うなど、荒れた会議の中、
板倉が大老に井伊直弼が決まった、と報告してきた。
老中首座の堀田は寝耳に水だった。






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