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徳川慶喜 第19回 父の死

(1998日)

安政7年(1860)3月3日、桜田門外にて井伊直弼は首を切られた。


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その日、老中が集まり、右端の脇坂(佐々木功)が仕切った。
斬奸趣意書が脇坂宅に届けられた。
井伊の罪を挙げ、幕府には他意はないとした。
この趣意書は全員が懐中に所持していた。

彦根藩の水戸藩への戦闘が始まるを恐れ、幕府は「軽傷」にした。
実際は「重症だが生存」ということにしたようだ。

跡継ぎを決めずに藩主が横死した場合に家名断絶となることもあり、
この措置は彦根藩にとってもありがたかった。


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その日、一橋家では「悲しげに暮らそう」と確認し、笑う。


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翌4日、水戸の斉昭は、永原を呼び詳細を聞いた。
江戸にいる藩主の慶篤と、一橋の慶喜への手紙を託した。

その後、斉昭の妻吉子から斉昭亡き後に、杖となってくれと頼まれた。
医者によれば、精神だけで生きている状態だった。


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幕府は井伊直弼を失い、新方針を立てれず、
そのまま直弼の公武一和方針に従い、和宮降嫁の話をすすめた。
生母の観行院は関白九条尚忠に激怒する。



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万延元年(1860)8月15日、満月だった。


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その日、水戸の斉昭は初めて満月を楽しんだ。
満60だった。


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徳川慶喜 第19回 父の死


翌日、江戸の慶喜は斉昭からの手紙を受け取った。

「牛乳を飲め」

とのことだった。
慶喜は父の愛に涙した。





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