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おしん 189~191回 太平洋戦争編

(1983日)

昭和6年(1931)春、おしんは、東京から伊勢へ戻った。
希望(のぞみ)を寝かせた後、
加代、清太郎とみのの3人の骨壺に手を合わせた。


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おしんは独断を竜三に詫びたが、竜三は、加賀屋でお世話になったおしんの当然の義務とし快く受け入れた。


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昭和58年(1983)、希望の息子である圭は、祖母である加代の墓参りをおしんと共にした。
山形へおしんを追いかけ、上野、佐賀、伊勢へと戻ってきたが、
おしんは、加代の孫だとこの段階まで教えなかった。


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昭和6年(1931)、おしんと竜三は、希望と仁を背中におぶりながら、仕事をし続けた。


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子守りは雇わず、冷蔵庫と自転車を買った。


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ひさには「とうとう買ったの」と言われ、竜三は、雄に支えてもらい練習した。


その日、浩太がひさ宅に来ていたので、
ひさはおしんに、浩太の運動を止めさせて欲しいと頼む。
特高警察の取締りが厳しくなっていた。
竜三も快諾し、おしんは浩太に会いに行った。
が、やめさせることは、やはり無駄だった。
「明日、いっしょに墓に行きましょう」とおしんは言ったが、
浩太は、危険なので墓の場所を教えるだけでいい、と断った。


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翌日、おしんは加代の子である希望を浩太に見せたかったので、墓まで行った。



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NHKオンデマンド おしん 189~191回 太平洋戦争編

しばらくして、浩太が来たが、捕まってしまった。
墓の側ということが不幸中の幸いだった。

浩太の仲間が捕まりモスクワ行きのことも話したようだった。

おしんが動揺していて、特高警察は「知り合いか?」と聞いたが、
浩太は「いいえ」と答える。

どうすることもできなかった。




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太平記 第10回 帝の挙兵

(1991日)

元弘元年(1331)4月、後醍醐天皇の倒幕計画が側近の裏切りで幕府の知ることとなった。(元弘の乱)


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日野俊基(榎木孝明)は、再び、六波羅に捕まった。
鎌倉へ送られ、斬首されることとなる。


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(足利高氏、高師直、 、佐々木道誉)

鎌倉では、長崎円喜の後継の内管領長崎高資が、反長崎派を潰しにかかっていた。
佐々木道誉が襲われ、足利高氏宅に助けを求めてきた。

以前、1324年の正中の変で、六波羅の手から逃げて佐々木道誉宅に逃げ込んだことがあった。

道誉は命乞いに長崎宅まで行きたいので運んでくれと高氏に頼んだ。
途中で殺されてはいけないことと、高氏が第16代執権北条守時の妹婿なので、
長崎といえど感嘆に手出しはしないだろうとのことだった。

高師直は迷惑な話と断ったが、高氏は承知した。


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佐々木道誉は、恭しく命を乞うた。


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扉が閉められ、高氏は帰宅。
病床の父貞氏に報告した。


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(護良親王 宗良親王)

幕府は、8月3000の兵を京に送った。
倒幕計画に名前の挙がった僧侶たちが捕まり、
後醍醐天皇も時間の問題なので、天台座主へと送られた2人は、
父を比叡山に迎えることとした。


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後醍醐天皇は動座を決断した。脱出だった。
比叡山に向かったが、敵がいたので、奈良に向かった。
東大寺も敵の手に落ち、笠置山に籠城した。


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TSUTAYA 太平記 完全版 

後醍醐天皇が笠置山にいるとの情報は拡散され、
河内の楠木正成も知ることとなる。

弟の正季が、馳せ参じるべきと喚いたが、
正成は、「負け」でどうしようもないと動かなかった。





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英雄たちの選択 「世界へ目を開け!~キリシタン大名・大友宗麟の挑戦」 [歴史動画]

(2019日)

宗麟という一人の個性が、自国領に西洋を丸ごと受け入れようとした。
9国と言ったが、3国の島津に敗れる。

薩摩隼人は別格に強いのでしょうね。
身体能力、日本の南端であることから客観的に列島を眺める視座、
貿易・海外に関する知見も優れていた。

関が原後で家康相手に領地を維持した島津なので、
戦場で武勇を奮う人間でなく家中に不和をかかえていた宗麟にとっては、相手が悪すぎたのでしょう。


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英雄たちの選択 「世界へ目を開け!~キリシタン大名・大友宗麟の挑戦」

----memo

5000規模の町

1,530誕生

弟を担ぐ勢力に父が加担 父と弟が死に 家督相続 1550 21


1551 ザビエルを屋敷に招いた 敬意で接した


教会 育児院 病院 西洋文化

メダイ タイ産の鉛で
 鉄砲玉も作れるメリット

硝石 大砲「国崩」 を得る 

アジアン戦国大名 最先端が宗麟


1562 宗麟 出家 禅宗

1576 島津 伊東の日向へ進行 






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おしん 186~188回 太平洋戦争編

(1983日)

昭和4年(1929)秋に次男の仁を伊勢で出産した。
翌年の春、りきからの手紙で加代の夫が自殺したと知る。
又、浩太が現れ、加賀屋の倒産と、自殺の原因が相場に手を出したことと知った。


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昭和6年(1931)の春となり、浩太が100円と加代の住所をおしんに手渡した。
おしんに行ってくれとのことだった。東京だった。


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竜三に話し、翌日に東京に向かうこととなる。
が、住所地は震災前はいかがわしい所だったので、
竜三はおしんに「覚悟」を求めた。


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髪結いの師匠宅を訪ねた。16でお世話になり15年経った。
事情を話すと、「行くな」と言われる。
が、その選択肢は無いので、健さんに同行してもらうこととなった。


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夫の自殺と加賀屋の整理の後、父母と希望の4人で東京に来たが、
清太郎は脳卒中で他界し、母は入院することとなった。
その入院代を得るため、加代は500円を借り働くことにした。
その母も間もなく他界。襖を開けると骨壺を2つ保管していた。



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NHKオンデマンド おしん 186~188回 太平洋戦争編


おしんが帰った晩、加代はおしんに手紙を残して骨壺に挟んだ。
浩太からの100円を父母の墓にと同封し、希望(のぞみ)を託した。

翌朝、おしんと健が訪ねると、血を吐き、眠っていた。
酒でいつ死んでもおかしくなかったようだ。

加代と所持品、希望を引き取る。


翌日、希望を背中に、3つの骨壺を手にして、伊勢へ向かった。





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ノーナレ 「きみは なにもの」 [映像-他]

(2019日)

葛飾北斎に夢中になる13歳の少年。
小学校にも通っておらず、名彫師藤澤洋に弟子入りしたそうだ。

漢検1級を勉強し、多趣味で麻雀もする。
東大の「異才発掘プロジェクト」で指導を受け認められている。

通信制の高校と京大を目指さず、この道一本に絞ろうとするが、
親は当然、賛成しない。


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ノーナレ 「きみは なにもの」






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いだてん~東京オリムピック噺~ (44)「ぼくたちの失敗」

(2019日)

東京五輪2年前の1962年アジア競技大会で、インドネシアは台湾とイスラエルを排除したため、国際陸連から非公認の大会とされ参加した国は除名するとの勧告があった。
IOCも非公認としており、日本の新聞では大騒ぎとなっていた。


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開会式の朝まで悩んでいたが、
オリンピック担当大臣は不参加ならこれまでの戦後補償の努力が無駄となると語る。
それで津島はオリンピックに支障なければ参加すると発言し、
田畑も参加するとした。
選手は大喜びだったが、帰国後、問題となった。


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アジア競技大会を「親善」とすれば問題なかったが、
田畑の記者に対する発言に一貫性がなかったため、世間の注目が拡大し、
そこへ川島が体制を刷新するとし、都知事と津島の3人の席で辞任を言い出させた。
が、津島は田畑も同時に辞めることを条件とし、川島は東に飲ませた。


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その3人の合意の上で、「懇談会」で田畑と東は退席させられ、
田畑は事務総長を辞めることとなった。


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カメラの前でも、「やめたくない」と涙を隠さなかった。


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しばらく、田畑は荒れていたが、ある時、忘れ物が届いた。


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仲間だった。


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いだてん~東京オリムピック噺~ (44)「ぼくたちの失敗」

新婚旅行もいかず、子どもの運動会にも行かなかった田畑だったが、
妻は愛想を尽かさず、笑顔を絶やさなかった。




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万引き家族 [映画]

(2018日)

万引き、車上荒らしなど不愉快であり、下品ではありましたが、
実際の廃屋を使って撮影し、貧困のリアリティーを追求しながら、
他人同士の繋がりを描く脚本と、俳優陣の演技に、
作品としては見応えがあり、この家族の視点で描かれたことに感嘆せざるを得ません。

「万引きを肯定する作品」と批判するのは容易い。
社会主義が否定された以上、富の不均衡からくる必然である現象なので、
犯罪者への取締り強化と厳罰化で結論づけ作品を批判するのは愚か。

『レ・ミゼラブル』で盗んだ主人公を赦した神父のように、
駄菓子屋店主の柄本明が許して与えようとするシーン。

法的には罪であっても、店が潰れなければ盗んでいいとする倫理など、
見るに耐えられない人がいるのも止むを得ない作品で、
炎上を招くことを承知の上での大成功だったのでしょう。










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おしん 182~185回 自立編

(1983日)

昭和4年(1929)秋、次男の仁が産まれた日、ふじは倒れた。
白血病だった。日に日に弱っていった。


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医師は、何もしてあげられなかった と頭を下げた。


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ふじが、山形で死にたいと口にした。
ふじにとっては17で嫁ぎ、5人の娘と2人の息子を産んだ家だった。
優しかった姑のなかと夫の作造、娘のはるが死んだ家で死にたかった。

仁は網元の神山ひさが預かってくれた。
駅まではリアカーで、そこからはおしんがおぶった。

到着した翌日、「雪が見たい」と言葉を残し、
おしんとりきと3人で雪を眺めながら、眠りについた。

弟や姉妹を呼ぶことは兄の庄治が止め、おしんは伊勢に帰った。



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年が明け、昭和5年(1930)の春となり、雄がオール5の通知表を持ち帰った。
おしんは、雄に帝大にいかせてやりたいと語った。

その日、りきから加代の夫が自殺したと手紙がきた。
加代に出した手紙も戻ってきた。


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しばらくして、ひさから急ぎ来てくれとの言付けを聞き、
行くと、浩太が来ていた。

加賀屋が倒産し、加代たちは行方不明、
夫の自殺は相場に手を出したことが原因と分かった。

浩太としては、加代から連絡があったか確認したかった。

酒田に行って確認することをひさに伝えると竜三と話していたところだったが、
浩太の話でその必要がなくなる。



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NHKオンデマンド おしん 182~185回 自立編

1年経ち、昭和6年(1931)春となり、浩太が「田倉魚店」近くで立っていた。
気づいたおしんは、竜三に知らせず浩太を追いかけた。

加代の居場所が分かったとのことだった。


網元のひさは浩太の紹介であり、後ろめたいことは無いので、
全て話してもよかったのでしょうが、面白くないので話さなかったのでしょう。





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徳川慶喜 第24回 久光上洛

(1998日)

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(孝明天皇 岩倉具視)

薩摩藩の卒兵上京の件で、岩倉が御所で孝明天皇に報告する。
幕府は和宮降嫁の条件である7~10年での攘夷の約束がありながら、
そのことを諸大名に知らせず、又、プロシアと条約を結ぶなど、
何を考えているか分からず、場合によれば御所に向かってくると説明し、
薩摩の上洛にお墨付きを与えることを求めた。


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( 議奏・中山忠能 大納言・近衛忠房  島津久光  議奏・三条実愛 岩倉具視)

文久2年(1862)4月16日、到着した久光は近衛家に挨拶に訪れた。
薩摩とは親戚でもあった。


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(島津久光)

久光は、将軍後見職に一橋慶喜、大老に越前の松平春嶽をと語った。



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(小松帯刀 大久保一蔵)

孝明天皇のお考えは公武一和であり、まずは、攘夷過激派の処分を久光は求められた。
久光は大久保に、説得し納得せぬなら殺せ、と命じた。


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徳川慶喜 第24回 久光上洛

(内藤信親 水野忠精 久世広周 板倉勝静)

老中会議で、内藤は、薩摩藩主の父ではあっても無位無官の久光が偉そうなので、
殺すべきとしたが、久世は、安藤が坂下門外の変で負傷しゴタゴタでもあるので、
問題をヘタに大きくこじらせたくなかったので、先手を打って改革したふりしようということになった。

まずは、安政の大獄での処分を戻せるものは戻すことにした。

こうして、一橋慶喜は、4年ぶりに登城し第14代将軍の家茂に謁見することとなった。





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いだてん~東京オリムピック噺~ (43)「ヘルプ!」

(2019日)

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2年後に東京五輪を控えていたが、盛り上がらないため、
田畑は広告塔に古今亭志ん生の弟子の五りんを採用した。


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播磨屋が金栗の足袋を提供していたが、アベベの足のサイズを測った。
アシックスも狙ったが、東京五輪でアベベが履いたのはプーマだった。


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1962年アジア競技大会がジャカルタで開かれたが、
インドネシア政府が、イスラエルと台湾にビザを発給しなかった。


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IOCが認めなかったこと、国際陸連の参加すれば除名するとの電報もあり、
日本が参加するか開会式の朝まで悩んでいた。
209名の選手を出しており、日本の不参加で大会をダメにされたくないので、
現地の選手の家族らが殴り込みをかけてきた。が、通訳が強かったので助かった。


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いだてん~東京オリムピック噺~ (43)「ヘルプ!」


悩んでいると、オリンピック担当大臣がやってきた。
スカルノ大統領と食事をした後だった。

川島正次郎は、田畑たちに、どっちにするか決めろと促すが、
自分の腹の中では決まっていた。




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