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麒麟がくる (26)「三淵の奸(かん)計」

(2020日)

永禄10年(1567)に尾張の織田信長は美濃を平定。
11月27日に敦賀にいた足利義秋は一乗谷に迎えられたようだ。
翌年2月、足利義栄が第14代将軍となる。


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が、病で京に入れず、義栄を将軍にと天皇に推挙した近衛前久の立場がなかった。
近衛家を面白く思っていない二条晴良が関白を辞めるよう追及してきた。

越前へ逃れていた足利義秋だったが、次の将軍を前提とした元服の許しを朝廷に求めてきて、二条晴良が天皇の許しを得、しかも近衛前久に伝えさせることにした。

前久は、代わりに伊呂波太夫に報酬を払って行ってもらった。


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義秋は31歳で元服し、義昭となった。烏帽子親は朝倉義景で、
二条晴良が来て見届け、武士となる。


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宴があり、光秀も呼ばれる。義景の従弟にあたる朝倉景鏡が上洛に反対していた。
越後に上杉謙信、国内での一向一揆がり、それどころではなかった。
光秀も景鏡に同調する言い方をすることで、逆に義景が上洛の決意を固めた。


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しかし、伊呂波太夫は上洛の大仕事は義景でも誰でもなく、光秀と信長だとした。



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心動かされた光秀は、美濃に向かう。
共同でなく単独での上洛に驚いた信長だったが、
光秀に義昭を連れて来いと命じた。


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光秀は、一乗谷に帰り信長の意思を伝えた。
さすがに義昭も、まとまらない朝倉でなく決断実行の信長を頼る決意をした。
問題は、上洛の決意をした義景に恥をかかせることになることだった。
さすがに義景は国境封鎖を行い、詫びを要求してきた。


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義輝の時代から側近だった三淵藤英は状況の打開に動いた。
家老の山崎吉家と朝倉景鏡と密談。知恵を出し合いましょうと語る。


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毒見が時間を置いて死ぬこととなる。盛り付け役の仕業だった。
6月25日、嫡男の阿君丸が他界した。


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NHKオンデマンド 麒麟がくる (26)「三淵の奸(かん)計」


永禄11年(1568)7月、足利義昭は越前を出て美濃に向かう。
別行動で、従弟の左馬助と煕子、岸、たまも、美濃の明智荘に向かった。

阿君丸の死は、義景の上洛を潰した。
それが三淵の奸計とするなら、密談の席で、

「喪ならば、義景様の恥ではないが・・・」

とまでは言えても、さすがに人物の指定はできない。
なら、盛り付け役に指示して実行させたのは、景鏡ではなく、家老となる。

乳母説もあるようだが、上洛による三好との戦争反対を大義とした権力闘争による景鏡と山崎の合意を三淵が導いたとするのは面白すぎでしょう。





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