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麒麟がくる (28)「新しき幕府」

(2020日)

永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて入京した。
そして電光石火の三好討伐が開始される。
29日には、三好三人衆の一人岩成友通は勝竜寺を失い細川藤孝が入った。
ほぼ同時期に摂津の芥川城主だった三好長逸は阿波に逃れ信長が入った。
この時期に第14代将軍足利義栄が他界する。


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三好政権の本拠地に構え、負けた将や献上品が集まった。
松永久秀は信長に付き戦い、足利義満の九十九髪茄子を土産に持ってきた。


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会議が紛糾していた。
特に松永久秀の扱いで、息子の久通が13代将軍の義輝殺害に関与していたことだった。
義輝に仕えていた三淵藤英は許せなかったが、信長の意を義昭は尊重した。
この時点では兄や父のようにとも口にした。


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義昭は、政所頭人の摂津晴門を引き続き用いるとした。
将軍の言うことなので、とりあえず信長もその場は同意する。


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義昭の第15代将軍就任を見届け信長は岐阜へ帰った。
が、翌永禄12年正月5日、本圀寺の変となる。
三好三人衆が将軍仮御所を襲った。
中で光秀が防戦し、外から細川藤孝、池田勝正、三好義継が来て、
三人衆は撤退。阿波へ戻った。

望月東庵と駒たちは本圀寺に入り負傷者の手当てをするが、
義昭と駒が感動的な再会となる。


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伊呂波太夫は正親町天皇に義輝亡き後の将軍に義栄を推挙した関白近衛前久の件で
駒から義昭の紹介を頼もうとしたが、光秀に持っていくことにする。


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種々の文書が見つかり、幕府役人の不正が分かる。
簡単に三人衆が本圀寺を襲えたのも通じている者がいたからだとした。


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6日に信長は将軍が襲撃されたことを知り、直ぐに向かった。
将軍に何かあれば、信長の評価は地に落ちかねなかった。
約120㎞を駆け抜け8日には着いたようだ。
そして、直接連絡してこなかった摂津晴門を怒鳴りつけ責任有りとし、
村井貞勝を当たらせることにした。


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NHKオンデマンド 麒麟がくる (28)「新しき幕府」


二条城を作り始めた。堅牢な将軍御座所とするためだった。
14か国から資材人員を調達した。
信長は使えるなら石仏であろうが関係なかった。
神仏習合の世で仏罰なぞ無いと割り切って使える合理と神経を持っていた。

ここが光秀の反信長感情の芽生えか、一抹の不安かと描写される。





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