SSブログ

青天を衝(つ)け (9)「栄一と桜田門外の変」

(2021日)


安政5年(1858)、彦根藩主井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まる。
越前福井藩主松平慶永は隠居謹慎。


seiten0901.jpg

慶永の側近橋本左内も謹慎、斬首となる。
井伊は、尊王攘夷や一橋派の志士や公卿、大名ら100名以上を連座させた。


seiten0906.jpg

一方、公武一和を図るため、孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の縁談を図った。


seiten0907.jpg

岩倉具視の進言で、攘夷の条件を付けての降嫁で幕府を操ることにした。


seiten0908.jpg

苛烈な弾圧により、志士は過激化。
ロシア海軍軍人殺害事件、フランス領事館従僕殺害事件、日本人通訳殺害事件、
フランス公使館放火事件、オランダ船長殺害事件が起きる。

井伊を心配した将軍家茂は、大老辞任を勧めるが、
初代藩主井伊直政からの誇りもあり、もとより死は覚悟の上だった。


seiten0909.jpg

安政7年(1860)3月3日。井伊側60名に対して、18名が襲撃。
森五六郎(水戸)が駕籠に向けて発砲。


seiten0910.jpg

幕府は、面子もあり井伊の死を隠した。将軍家茂は見舞いに朝鮮人参を送った。
跡継ぎの届け出をせず藩主が死んだ場合、お取り潰しになるところ、
首を取られながら病死にしてもらうことで助かった。

桜田門外の変の日時を事前に知りながら井伊直弼が承知して死を選んだとする説、
キチンと殺してくれるよう剣士で名高い有村治左衛門を井伊が手配したとする説は、
考えにくい。


seiten0911.jpg

薩摩藩士だった有村治左衛門が首をあげた。北辰一刀流の使い手だった。
薩摩藩 国父の島津久光は薩摩が井伊の首を取ったと喜んだ。

有村治左衛門は、大獄で獄死した日下部伊三治の娘と前夜に祝言を挙げていた。
また伊三治の息子の裕之進も獄死していた。

弟に有村國彦がおり、その子孫が井伊の彦根を地盤とするようになり現在に至る。


seiten0913.jpg

幕府の公式見解が病死であろうが、事実は血洗島にも知られていた。
尾高長七郎が見ていたようだ。


seiten0915.jpg

半年後の万延元年(1860)8月15日、蟄居処分のまま他界した。


seiten0917.jpg
NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け



慶喜も隠居謹慎の中で父の死を知る。
幕府としてもテロリストの願望を叶えてやる義理なぞなかった。




コメント(0)