SSブログ

青天を衝(つ)け (10)「栄一、志士になる」

(2021日)


安政7年(1860)文久元年(1861)春、栄一は江戸に向かった。
父には、横浜が開かれてから麦が3倍になり、生糸が外へ流れている
と言って、商売上の知見を広げる目的とし「尊王攘夷」なぞ口にしなかった。


seiten1001.jpg

喜作に大橋訥庵の塾へ案内されたが、へらず口で嫌われる。


seiten1003.jpg

河野顕三という男のマウントがうざかった。


seiten1004.jpg

人斬りの練習で真剣を握ったが、河野の
「百姓は鍬や鋤で土でも掘っているのが似合いだ」
という言葉に我を失う。


seiten1007.jpg

天璋院は、家定に嫁いだのは次を慶喜にする使命があったこと、
和宮の縁談も慶喜が将軍になっていればなかったことを語り、
家茂に公武一和を再確認させ、自らも一生徳川を支えると誓った。


seiten1008.jpg

文久元年(1861)10月、和宮の行列が江戸に向けて出発。
3万人50㎞と凄まじかった。


seiten1009.jpg

渋沢家ももちろん食事の用意をする。


seiten1010.jpg

12月、下の者の調整が済み、ようやく顔を合わすこととなった。
「これから末永くどうかよろしくお願いいたします。」
家茂は紳士だった。


seiten1013.jpg

井伊直弼が進めさせた和宮降嫁を安藤信正が実行したが、
志士の怒りが暗殺計画となり、長七郎も加わることとなる。
が、惇忠と栄一が猛反対。長七郎は身を隠すことにした。
元々は長州の桂小五郎らの破壊活動計画で彼らが参加しないこともあり、
栄一らの反対は大正解だった。


seiten1014.jpg

文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外にて、老中安藤信正が襲撃される。


seiten1015.jpg
NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


安藤信正に自決に追い込まれた堀利煕に恩があり、
河野顕三は水戸浪士らと6名で決行し、負傷させた。






コメント(0)