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青天を衝(つ)け (13)「栄一、京の都へ」

(2021日)


文久4年(1864)1月、慶喜の入京に平岡も随行することになる。


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勘定奉行配下の八州取締役に追われたことがあった喜作と栄一は
京に向かう前、江戸の平岡を訪ねた。
奥方から平岡の家臣であると示す書状を頂いた。


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身なりを一橋家家臣に相応しく整え京に向かった。
新撰組副長の土方歳三は怖かった。


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孝明天皇は参与会議を招集した。


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徳川慶喜(将軍後見職)、松平春嶽(政事総裁職)松平容保(京都守護職)
後列に伊達宗城(伊予宇和島)、山内容堂(土佐)、島津久光(薩摩)がいた。

久光だけが藩主の父であるという身分で参加した。


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(山内容堂、伊達宗城、島津久光、大久保一蔵)

久光の後ろに大久保一蔵がいた。
文久2年(1862)の卒兵上京から文久の改革、江戸からの帰路での生麦事件での対応など、久光の背後で大久保が暗躍していた。

当時は横浜鎖港問題と長州問題が主な議題だった。
昨年の文久3年に孝明天皇の命で攘夷の決行となり、5月に長州の外国船砲撃、
7月に薩英戦争となったが、幕府も横浜鎖港の使節団を送っていた最中だった。

が、合意に至らず虚しくエジプト経由で帰国することになる写真が残っていた。



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横浜鎖港など無理難題の朝廷からの要求に対し、春嶽は既に大政奉還を考えていたが、
平岡円四郎は春嶽の態度が気に食わなかった。
1854年にペリーの配下に写真を撮ってもらっていた黒川に窘められた。


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そこへ水戸藩士の原一之進がやってきた。
かつては大橋訥庵と安藤信正暗殺を企てた過激攘夷論者だったが、
平岡の疑いに対し、徳川斉昭亡き後の水戸の分裂と過激行為、
藤田東湖の息子が水戸を抜けたことなどを他人事のように嘆いてみせ疑いを晴らした。


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藤田小四郎は武田耕雲斎の制止を振り払い水戸を出た。
酒に溺れる生活だったが栄一の言葉により、我を取り戻した故の行動だった。


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栄一は、父から貰った100両を飲み食いで使ってしまった。
志士との付き合いで約1000万円の大金を2か月ほどで散在したようではある。
この頃、長七郎に手紙を送って京に呼ぶ。

不安定だった長七郎に兄の惇忠が仲間の中村三平に同行を依頼。
が、長七郎は幻覚で人を殺害、捕縛となる。


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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


手紙に過激な文言があり、幕府側から一橋家へ照会があり、
栄一と喜作は、平岡と再会することになる。

事情を話すと円四郎は再び、一橋家へ仕えろと誘ってくれた。
命の恩人だった。





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