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鎌倉殿の13人 (18)「壇ノ浦で舞った男」

(2022日)


寿永3年・治承8年(1184)1月、木曾義仲は額を討ち抜かれ死亡。
4月、嫡男義高は鎌倉を逃れようとするも見つかり他界。


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大姫は悲しみ心を閉じてしまわれた。
義高と遊んでいる時と一転し沈む演技を見せた。
斉藤由貴が『スケバン刑事』で「クズ」などボロカス言われながら撮影していたらしいが、
まさかNHKの大河ドラマで少女をボロカスに傷つけながらカメラを回していたということはないと信じたい。


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寿永4年・元暦2年 2月、義経は嵐の中の屋島攻めを決断。
梶原景時ははじめは反対したものの、詫びて義経が正しいとした。
どちらに転んでもかまわないという判断だった。
義経は、5艘の舟で奇襲し成功する。


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頼朝は報告を受け、義経の連勝による驕りを危惧し、
総大将を梶原景時にする命を出した。
が、義経と景時は、壇ノ浦の陣で仲違いを演じ、比企に止めさせ、
義経の采配で戦う流れにした。


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平家方の漕ぎ手を狙うことで、動けなくし形勢逆転となる。
宝剣を持つ二位尼、平清盛の正室時子が入水。


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時子に仕えた按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)が安徳天皇を抱え入水。
が、自分は助けられてしまい、尼となったようだ。
安徳天皇の母徳子も捕まり助かる。


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壇ノ浦の勝利の報告を受けるも、安徳天皇と宝剣を失ったことにより、
公人として九郎を叱りつけてやると諸将の前では呟いた。


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が、義経が平家を滅ぼしてくれたことは父を同じくする兄弟の悲願であり嬉しかった。


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義経は院に報告。安徳天皇は法皇の孫でもあるが、清盛の孫でもあった。
法皇は頼朝をけん制する目的もあり義経を庇うことにしたのでしょう。


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景時は先に鎌倉へ戻り報告。
義経が才走り人の情けを蔑ろにするとした。

検非違使として義経が平家方捕虜を連れてくることになったが、
鎌倉郊外の腰越で留め置かれた。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


義経は、平宗盛・清宗父子を会わせてやった。






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