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鎌倉殿の13人 (19)「果たせぬ凱旋」

(2022日)


元暦2年(1185)5月に義経は鎌倉への凱旋を腰越にて留められ、止む無く京へ戻る。
京の義経の元に伯父の行家が訪ねてきて頼朝への決起を促すも、義経にその気は無かった。
義経が非を詫びるなら許そうという意思もあり、頼朝は義経を伊予守に任命し検非違使の任を解かせることにした。


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鎌倉からの知らせで義経は喜んだ。
が、参内すると、伊予守と検非違使の兼任という未曽有の恩寵を賜ることになる。
知らせを聞いた頼朝は、何故断らなかったのかと義経に不信を抱く。

その頃、頼朝と義経の対立を憂いた政子たちだったが、
阿野全成が亡き父義朝の菩提を弔う日に義経を呼べばよいとした。


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京情勢を伝えてくれていた三善康信が鎌倉で問注所執事として働くこととなった。


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文覚が、義朝のドクロを持参する。
証拠が無くとも、平家を討ち義朝の菩提を弔う前に鎌倉へ運ばれ頼朝が認定したことが大事なのだと説得。


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義経が父の法要に参加したく参内するが、後白河が倒れ留まるよう求めた。
毬を脇に挟み脈を止めるという博識でもあった。


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義経の正妻郷御前が元興福寺の僧兵土佐坊昌俊を招き入れ、
夫を少し痛めつけ、静御前を亡き者にしようとした。


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義経は奮闘し2人は助かるが、そこへ行家が現れ、
暗殺を指示したのは頼朝であるとし、法皇から頼朝追討の宣旨を頂くよう義経を説得。
さすがに行家の言を信じることとなった。


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鎌倉では義経への恐れが拡がっており、梶原景時が自ら総大将を申し出たものの反対論が強かった。
義時が困っていたのを見かねて三浦義村が空気を一変させ、義経討伐の合意となった。


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奥州の藤原秀衡は、義経が誤ったと見抜いた。


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行家・義経を捕縛するため、法皇様をお支えするためと、
西国での守護地頭の設置も認めてもらえるうよう交渉。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



義経は自ら時政・義時を訪ねる。
義経追討の院宣のことはまだ知らなかった。
時政義時父子は自信を喪失している義経を励まし、逃がしてやった。
鎌倉による全国組織を構築するには、この段階での自首は嬉しくなかったのでしょう。






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