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太平記 第48回~第49回 (完)

(1991日)


観応2年(1351)2月、南朝方となった直義の軍勢に尊氏は敗れる。
和議の条件に高師直の出家としていたが仇討ちを優先した上杉能憲に殺され、
尊氏は惨めに京へ戻った。

が、尊氏は将軍として堂々と振る舞い、論功の権は将軍にあることを確認し、尊氏勢の権益は守られることになった。


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が、その取り決めに不満だった桃井直常が白紙撤回を求め、細川顕氏、斎藤利泰を尊氏に求めさせたが、尊氏の振る舞いに敬服、親尊氏となった。
これに対して桃井..
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太平記 第45回~第47回

(1991日)


貞和5年(1349)、高師直は足利尊氏亭を5万の兵で囲む。直義の引退が条件で、尊氏と組んでいた。が、直義が拒否し討死承知で出陣しようとする。
そこへ佐々木道誉が来て、高師直は将軍までも殺めることを考え始めたという。
ここで、直義は降参し、義詮の後見人となることと、配下の安全を条件とした。

こうして鎌倉にいた義詮は入京することとなり、母登子は再会を喜んだ。
直義は朝廷寺社との実務に長け義詮に記録を渡したものの周辺に高師直派が固めており、直義..
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太平記 第42回~第44回

(1991日)

尊氏配下に塩冶高貞がいたが、高貞は南朝との親類筋でもあり後村上天皇の母阿野廉子と通じていた。尊氏は承知していた。その高貞の妻に高師直が恋文を送っていた。
夫の高貞は師直に他人の面前で文を返しやめさせようとする。が、恥をかかされたと師直は塩冶を恨み、南朝と通じていると直義に告発し直義は逮捕しようとする。が、塩冶とその妻は自害する。その経緯を知った尊氏はキレ、諸将の前で高師直を叩きのめす。

ある日、土岐頼遠が酒に酔う中、光厳上皇の牛車に矢を射るという..
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太平記 第39回~第41回

(1991日)


延元2年/建武4年(1337)8月、北畠顕家は義良親王を奉じて鎌倉へ進軍。
12月、鎌倉陥落。義詮は逃走。1月に顕家は京都を目指した。
美濃大垣で北朝方に勝ったものの、越前の新田義貞と合流せず、伊勢に向かった。
父の北畠親房は叱る。理由を義貞と京都を奪還しても尊氏と同じ轍となるとした。
顕家の軍勢には、義貞の息子や北条時行もおり諸説あるようだ。
顕家は大和へ向かい、その後、和泉で高師直の軍勢に敗れる。

新田義貞も8月、足利方の軍勢の矢..
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太平記 第36回~第38回

(1991日)


建武3年(1336)2月、尊氏は京を追われ、九州へ逃れるも、多々良浜の戦いで勝利し九州を平定、一転2か月で京へ向かうこととなった。直義が陸路、尊氏が海上を東進する。

播磨の赤松円心を攻めあぐねていた新田義貞は京に戻るも、叱責を受け再度、出陣、尊氏を兵庫の海岸で待ち受ける。
楠木正成は、京は攻めるに易く守りに難いので叡山に御動座願い、一度京を空にして後に攻めるという案を述べたが、拒絶。やむなく兵庫へ向かった。
必敗の戦に正行を連れていくわけに..
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太平記 第33回~第35回

(1991日)


北条高時の遺児時行が鎌倉を襲撃し成功し、直義や登子、千寿王は鎌倉を脱出。
尊氏は、後醍醐帝に背き鎌倉へ向けて兵を動かし、取り戻した。
家族と再会し祝いの席に花夜叉一座が舞を披露。その日、登子は不倫の子、不知哉丸と対面。尊氏の引き取りたいとする土下座を拒否。やむなく寺に預けられることとなった。

朝廷では、護良親王殺害と恩賞を勝手に配分したことから、即座に朝敵尊氏を討つべしとの声が多数となったが、楠木正成の言により、まずは尊氏を呼び出し弁明させ..
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太平記 第30回~第32回

(1991日)


持明院統系の西園寺公宗と生残った北条高時の弟泰家らが後醍醐天皇暗殺を目論んだ。
知るところとなった尊氏は武者所の新田義貞に手柄を譲る。
対護良親王で協力してくれた借りを返したとした。

一方、高時の遺児時行は鎌倉を襲う。直義は守り切れず、三河に逃げることにするが、
その際、護良親王を殺害した。北条残党が担ぐ可能性を排除するためとした。

尊氏は妻子の心配もあり征夷大将軍として北条討伐に行きたく帝に裁可を求めるが、
将軍位も東征も許され..
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太平記 第26回~第29回

(1991日)


恩賞に三位局阿野廉子の意向が反映し、六波羅攻めの功のあった赤松円心が播磨の一地域の荘園のみと極端だった。護良親王派のためだったが、円心は親王に相談しても無駄だったため、足利邸を訪ねぶちまけ、尊氏は受け止める。

奥州での北条残党を討伐するため、帝は北畠顕家に命じ父親房を後見とした。
親房は奏上し幼い義良親王を総大将とすることにした。
当時は子どもに何か力が宿っていると信じられていたという。

三位局派は人質に取られたと捉えたり、護良派は力..
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太平記 第23回~第25回

(1991日)


後醍醐帝を西宮で迎えた楠木正成は、先陣を任され凱旋を果たす。
宴会で、正成のネタを高氏が頂き先に披露し大ウケする。

護良親王に天台座主に戻るよう帝から使者が来て激怒。高氏を外せとの要求だった。
かつて帝が高氏の配下に捕らえられ隠岐に流された後も悪戦苦闘、時には山伏に変装もし、また六波羅を何度か攻めてもいた。
それが、最後に北条を裏切った足利が六波羅を落とし、憎悪となる。
親王は、高氏と三位の局を政敵と考える。

帝は息子と再会し、親..
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太平記 第21回~第22回

(1991日)



高氏が六波羅を2日間で落とす。赤坂城で楠木正成が防戦しているが、
兵糧もつき困っていたところだった。北条勢が退散するところを追撃。
後醍醐帝も知らせを受け喜ぶ。報告では足利の名はなかったが、高氏が動いた結果であると明察される。

東では鎌倉より新田義貞に戦費調達で6万貫を要求。
無礼な幕吏を斬りつけ150人で挙兵。南下する。
途中、高氏と登子の子千寿王を総大将として迎えたことで軍勢は拡大。

登子と千寿王を逃がした守時は裏切り者扱..
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太平記 第18回~第20回

(1991日)



隠岐より後醍醐帝が脱出する。河内の楠木正成が赤坂城で防戦する中、
鎌倉より第二陣が発つこととなる。
妻子を連れていくつもりだったが、得宗殿に人質として残すこととされる。
又、近江の佐々木道誉に高氏を監視するよう人質を取る。

足利の本拠地三河で分家衆の前に決意を語り、謀反の疑いで自決した祖父の無念の遺書を読み上げる。

道誉は妻子が鎌倉にいたが、高氏の理想を聞き決断。まずは、六波羅を落とすことにした。

右馬介が鎌倉より高氏の妻..
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太平記 第14回~第17回

(1991日)

2年11か月ぶりの『太平記』となる。当時、週3本の大河ネタで投稿する余裕が無くなり、
『徳川慶喜』も休止して『麒麟がくる』だけとする。
時間的にも楽な『母をたずねて三千里』に切り替えていた。
その後、復活するきっかけがなく本日に至りました。
久しぶりですが、面白かったですね。一気に4本となりました。

前回、元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇が幕府に捕まり、
10月に赤坂城が落ち、楠木正成が山中に消えた。
足利高氏が伊賀にきて捜索してい..
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太平記 第13回 攻防赤坂城

(1991日)

元弘元年(1331)9月、幕府軍は後醍醐天皇が籠る笠置山を包囲した。
その間に、20日、持明院統の東宮が践祚し、光厳天皇となられる。
そして、28日に笠置山から脱出し、捕まった後醍醐天皇は六波羅が預かった。
幕軍諸将は京で残党対策会議を重ねた。


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その間、北畠顕家が高氏を訪ねてきた。
後醍醐側近の公家北畠親房の長男だった。父に会ってほしいとのことだった。


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(北畠親房 佐々木道誉)

敵方だったが仕方なく訪ねた..
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太平記 第12回 笠置落城

(1991日)

元弘元年(1331)9月、幕府軍は後醍醐天皇の籠る山城国笠置山へ向かった。
父の喪中でもあったが、出陣を命じられた足利高氏は参加した。


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(後醍醐天皇、護良親王、楠木正成、、、)

河内の楠木正成は勅使が来たので、笠置山へ馳せ参じた。
策を聞かれた正成は、集まった諸将を地元に返し、
各地で決起することが、逆に笠置山を守ることと述べ、天皇はご理解された。


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「4日後に帰る」と、弟の正季が柳葉敏郎を伝令として楠木邸へ..
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太平記 第11回 楠木立つ

(1991日)

元弘元年(1331)9月、笠置山に籠る後醍醐天皇に六波羅軍が敗れたとの報が鎌倉に届いた。


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(長崎高資 、 、 、覚海尼、北条高時)

内管領の長崎高資は、軍の陣容案を第14代執権だった高時に報告に来た。
高時は高資の父長崎円喜への暗殺に失敗していたが、
執権職を退き、母のいる寺に籠ったこともあり手打ちがなされたのでしょう。

高資の案には、父が亡くなったばかりで喪中の足利高氏も含めていた。


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第16代執権の北..
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太平記 第10回 帝の挙兵

(1991日)

元弘元年(1331)4月、後醍醐天皇の倒幕計画が側近の裏切りで幕府の知ることとなった。(元弘の乱)


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日野俊基(榎木孝明)は、再び、六波羅に捕まった。
鎌倉へ送られ、斬首されることとなる。


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(足利高氏、高師直、 、佐々木道誉)

鎌倉では、長崎円喜の後継の内管領長崎高資が、反長崎派を潰しにかかっていた。
佐々木道誉が襲われ、足利高氏宅に助けを求めてきた。

以前、1324年の正中の変で、六波羅の手から逃げて佐..
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太平記 第9回 宿命の子

(1991日)

正中2年1月(1325) 足利高氏は19だった。
この年、後に執権となる北条守時の妹登子との結婚したが、
前回、お披露目の席で、長崎円喜暗殺未遂事件が起こった。
第14代執権北条高時が犯人だった。


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この暗殺団の中に花夜叉一座の石も加わっており、帰ろうとする高氏を殺しにかかった。
家族が足利家の連中に殺されたことと、妹となった藤夜叉との件だった。
登子にも知られることになった。


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その日、父が倒れ、貞氏は高氏に..
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太平記 第8回 妖霊星

(1991日)

正中2年1月(1325) 足利高氏は19だった。
前年に京で知り合った藤夜叉が鎌倉へ来ていた。


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昨日、再会し短い会話を交わして、今日の約束だったが、
藤夜叉は鎌倉を去った。
石が花夜叉一座の拠点の伊賀へ連れて行った。
高氏の子を宿していたが、覚悟の上だった。


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昨年の後醍醐天皇の倒幕計画(正中の変)で捕まった日野俊基が釈放された。
同族の日野資朝は罪を被り佐渡島へ流刑となった。


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日野俊基の出..
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太平記 第7回 悲恋

(1991日)

正中2年1月(1325) 足利高氏は19だった。
その頃、奥州安東氏の乱が長引いていた。


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河内で楠木正成に日野俊基への言付けを頼まれた石は鎌倉に着き、
花夜叉一座の仲間と再会する。
この時、藤夜叉の妊娠を知り不機嫌となる。


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北条得宗家の内管領・長崎円喜が足利宅へ訪れると知らせがあり
弟の直義は激怒していた。
高氏が捕まったのも彼らの企みだったからだった。


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長崎は、高氏と北条守時(赤橋)の妹..
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太平記 第6回 楠木登場

(1991日)

元亨(げんこう)4年(1324)高氏が19で京に向かい、
醍醐寺で日野俊基と会っていたことから、謀反と疑われる。
六波羅の次は侍所に捕まったが、北条守時(赤橋)の言で釈放された。


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高氏と父の足利貞氏は、赤橋宅に礼に行った。
が、元々は北条得宗家の内管領長崎円喜から始まったことなので、
本来は北条が足利宅へ詫びに来るのが筋だった。
が、赤橋は先に全てを認め頭を下げた。
ここから、守時の妹の登子との縁談話が進んだ。


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太平記 第5回 危うし足利家

(1991日)

元亨(げんこう)4年9月19日(1324)、
足利高氏は19だったが、幕府への謀反を疑われる。
京の醍醐寺で日野俊基と会っていたのを通報した者がいたからだった。
六波羅からは助かったものの、侍所に捕まった。
内管領長崎円喜の指示によるものだった。


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(連署・金沢貞顕  御家人・足利貞氏)

高氏の父貞氏は、妻の兄にあたる北条貞顕(金沢)宅にかけつけた。
連署にも執権にも相談なく長崎円喜が息子の高資を使って捕まえたとのことだ..
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太平記 第4回  帝 ご謀反

(1991日)

元亨(げんこう)4年9月19日(1324)
六波羅軍3000は名だたる者たちを京都で襲撃した。

土岐頼兼たちの倒幕計画が露見、正中の変となった。
頼兼は自害。日野俊基は佐々木道誉宅に逃げ込み、隠れることに成功。


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足利高氏は日野と会っているところを見られ、六波羅探題で詮議を受けた。


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後醍醐天皇が首謀者だったが、幕府には知らないこととした。


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花夜叉一座の石は、日野俊基に別の隠れ家へ案内するよう..
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太平記 第3回 風雲児

(1991日)

元亨(げんこう)4年(1324)9月、高氏は京についた。


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京に来たら寄るようにと、日野に言われたことを思い出し醍醐寺に来た。
貴人がいた。扇子に何かを書いていた。


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(日野俊基 四条隆資 文観 花山院師賢)

その貴人が扇子を風にまかせ飛ばし、文観が手に取り、読んだ。
後醍醐天皇の御製だった。


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再会を喜ぶ日野は、高氏に倒幕の意思を伝えた。
すでに新田義貞に会ったと言う。
新田や全国の諸将は足..
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太平記 第2回 芽生え

(1991日)

赤橋守時に母が借りていた『古今和歌六帖』を高氏は返しに訪ねた。
後に正室となる妹の登子が応対に出る。


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北条氏一族で、第2代執権義時の孫の長時の流れの得宗家に次ぐ名門、
長時は第6代執権となるが、兄守時も後に第16代執権となる。
赤橋に屋敷を構えていたので、赤橋を名のったそうだ。


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時宗の僧侶と信者が群れをなして歩いていたが、
第14代執権北条高時の内管領長崎円喜(フランキー堺)の行列とぶつかった。
すると長崎の..
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太平記 第1回  父と子

(1991日)

弘安の役の4年後、弘安8年(1285)、安達泰盛が北条得宗家に潰された。
北条家は、鎌倉幕府の有力御家人を次々潰していった。

物語は、20年後の1305年から本格的に始まる。
北条氏に潰された吉見一族の残党の塩屋家の者たち10数名が、
足利家を頼るも、幕府から差し出せとの要求があった。
同じ源氏の流れを汲むので助けたかったが、時代は北条得宗家にあり、
家の門を空けさせ、塩屋の者たちは突撃した。


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足利貞氏(緒形拳)は少年を..
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