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徳川慶喜 第48回~第49回 (完)

(1998日)


江戸に戻った慶喜は奥で天璋院や静寛院宮、また家臣たちに説明、恭順を説く。
そして上野寛永寺に籠った。
徳川家の陸軍総裁となった勝海舟は山岡鉄太郎に官軍の参謀西郷吉之助のいる駿府へ行かせた。慶喜の備前への預かりの要求に関して山岡は粘ったことで、水戸への謹慎で済むこととなる。
朝敵となったことを母に詫びるも、江戸を火の海としなかったことや、内戦にしなかったことを挙げ受け止める。
明治2年となり謹慎が解け静岡の元代官屋敷に移り趣味に生きることとした..
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徳川慶喜 第47回

(1998日)


慶喜は二条城に幕軍を集めた。正親町三条は戦かと慌てていたが、大坂への一斉に引き上げだった。
薩摩による江戸の狼藉や放火により、三田の薩摩藩江戸藩邸が庄内藩に焼討になったことも知ることとなり、幕臣の激昂を抑えることができなくなり、慶喜は薩摩討伐を命じた。鳥羽伏見の戦いが始まったが、1万5千の幕軍は錦の御旗を用意した5千の薩長軍に敗れることとなる。
それでも戦おうとする下の者を置いて、松平容保・定敬、板倉勝静を引き連れて江戸へ逃げることにした。これ以..
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徳川慶喜 第45回~第46回

(1998日)


幕閣より竜馬の存在と「船中八策」を知った慶喜だったが、倒幕に繋がる危険を感じ取る。土佐藩後藤象二郎より建白書を受け取る一方、西周からは「議題草案」を受け取る。
薩摩の西郷や大久保は岩倉具視を通じ倒幕の密勅を得ようと企む。
老中板倉勝静より近日中に勅命が下されると聞いた慶喜は大政奉還を即断する。

大義名分を奪われた大久保たちは、岩倉、三条実愛と密儀、王政復古を目論む。
赦免された岩倉は12月8日参内し朝議で慶喜を弁護する山内容堂を黙らせる。..
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徳川慶喜 第43回~第44回

(1998日)


孝明天皇の崩御により朝廷内の反幕派が盛り返すこととなった。
長州征伐に積極的な松平容保を抑え、慶喜は西周より西洋事情を学び憲法を作ることにする。
兵庫開港を許さない朝廷に説得する前に、駐日英国公使パークスに言ってのけた。
それを知った西郷らは速やかな倒幕の必要を覚悟する。

島津久光は長州処分を優先して朝議の議題として放免とし倒幕に持ち込みたかったが、
慶喜は先に兵庫開港を主張。同時となり、慶喜は御所に居座り説得、勅許を得る。
その説得..
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徳川慶喜 第42回

(1998日)


配信が今月で一旦終了するそうなので視聴します。

慶喜は15代将軍となり幕政改革を行うことにする。
オランダ留学から帰国した西周を呼びつけ勉強しはじめる。
薩摩の伏見藩邸で桂小五郎が偉そうに大久保や小松に語る。
西郷は慶喜の入れ揚げていた芸者へ何度も通う。

そのような折、危篤の知らせを受け慶喜が御所に向かった。
孝明天皇は崩御なされた。慶喜へのご遺言を聞くことができたことは幸いではあった。
が、情勢が激変することを覚悟しなければな..
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徳川慶喜 第40回~第41回

(1998日)


慶応2年(1866)7月、将軍家茂が他界する。
家茂は田安の亀之助を後継指名しており、大奥では天璋院をはじめ賛同していた。
慶喜の父斉昭の時から奥の費用を問題視していたからだった。
が、亀之助が4歳でもあり和宮は国難の折には無理だとする。
慶喜は老中板倉勝静から宗家の相続と将軍位継承を求められたが、拒否する。
その上で懇願された形で引き受けることとなった。
しかし、宗家を引き受けると、将軍位は別だった。

早速、慶喜は朝廷に参内し長州..
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徳川慶喜 第39回

(1998日)


慶応元年(1865)、日米修好通商条約の勅許を慶喜は得る。
そして慶喜が長州再征討を急ぐも、準備が整わなかった。
そして、翌年となり、薩摩の西郷隆盛が長州の桂小五郎を呼びつけた。
3日間碁ばかり打ち用件をきりださなかったので桂はキレる。
そこへ西郷はこれまでのいきさつは水に流そうと話を始め、薩長同盟が成立する。
7月、大坂にて家茂が倒れることとなった。



第39回 将軍急死
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NHKオンデマンド 徳川慶喜




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徳川慶喜 第37回~第38回

(1998日)


元治元年(1864)冬、天狗党は水戸から越前まで来ていた。
幕府から討伐令が来て加賀藩も派兵していた。降伏勧告の直接交渉にあたった永原甚七郎は、あまりの惨状を目にし、加賀藩は衣食と酒、菓子類を用意した。
頼りにした慶喜が討伐軍の責任者となったことを聞き失意だった天狗党も、ついに降伏。
が、彦根藩に引き渡されるや井伊直弼暗殺の水戸への恨みもあり悲惨な待遇となり352人が斬首され穴に胴体が放り込まれ処分された。
慶喜は涙するも、どうすることもでき..
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徳川慶喜 第36回

(1998日)


禁門の変を起こした長州に討伐の勅命が下り、幕府としても決断する。
が、尾張の徳川慶勝がを長州征討軍総督を固辞。
四国艦隊に敗れた長州を討つ絶好の機会だったが動けなかった。
幕府が無策であれば長州と外国が取引しはじめ、幕府が侮られ権威の低下となり、
慶喜は幕吏に家茂上洛を急かす。

薩摩藩軍賦役の西郷隆盛は軍艦奉行を罷免され暇していた勝海舟を訪ねる。
そこで啓蒙された西郷は長州との和解条件を考え始めた。

一方、人妻みよとの恋に落ち夫..
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徳川慶喜 第34回~第35回

(1998日)


元治元年(1864)6月、池田屋に新撰組が襲撃。多数の長州藩士も死亡。
長州は、追放された公家の赦免願いを口実に兵を都へ向けていた。
慶喜は引き下がるよう再三の説得を重ねるが、御所への発砲が始まった。
慶喜は駆け付け、帝に拝謁する。先に病の松平容保がお守りしていた。

一方、水戸では天狗党が暴発していた。藤田東湖の4男小四郎が首領となり暴れていた。
親幕の諸生党が牛耳り閉門していたところを天狗党が発砲。
既に幕府から諸藩に討伐の命令が下..
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徳川慶喜 第32回~第33回

(1998日)


文久3年(1863)末 慶喜側近、中根長十郎が斬られる。水戸や長州の尊攘派によるものと考えられた。
この年8月に政変により長州系が排除され、将軍後見職の辞任は受理されず上洛の命が下り、慶喜は軍艦奉行並勝海舟の順動丸で江戸から2昼夜で大坂へ着き京へ入ったようだ。

参与会議が招集される。開国が国是となるかと思われたが、老中が攘夷を慶喜に説得。
昨年の長州による攘夷決行の勅許で、仕方なく横浜鎖港を決め諸外国に使節団を送っている最中の方針変更は幕府..
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徳川慶喜 第30回~第31回

(1998日)


前年の生麦事件により江戸湾に英仏艦隊が押し寄せていた。
文久3年(1863)将軍家茂は229年ぶりの上洛となる。
将軍後見職たる慶喜には幕府への政治一任の勅許だったが、
家茂には事柄により朝廷が諸藩に命令するとのことだった。
幕閣は怒り、政事総裁職の松平春嶽は辞任すると言い、帰った。

5月10日の攘夷を約束して江戸に帰った慶喜は9日に生麦事件の賠償金10万ポンドを老中小小笠原長行に支払わせ、攘夷はできなかったと将軍後見職を辞任。
一方..
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徳川慶喜 第29回 将軍名代

(1998日)

 文久2年(1862)末、慶喜が将軍家茂の露払いに上洛する頃、
水戸藩に幕府からお許しがあった。

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孝明天皇からの水戸藩への勅諚を返納しろ、との幕府の方針だったが、
もはや好きにしてよい、とのことだった。
条約を井伊直弼が断行したことから始まり、多くの血が流れたが、
和宮降嫁で公武一和となり、もはや過去のものとなったからだった。
虚しくなった水戸藩主の慶篤は嗚咽する。


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文久3年(1863)1月5日、慶喜は東本願寺を..
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徳川慶喜 第28回 上洛への道

(1998日)

文久2年(1862)将軍後見職の勅命を頂いた慶喜だったが、
8月21日の生麦事件の後始末、天璋院からの要望、和宮からの要望、
その他、あらゆる案件が集中し忙しくなった。


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特に頭を悩ませたのが、薩摩の久光が江戸へ下向していた隙に、
長州が幅を利かせることになり、破約攘夷論を拡げていた。

井伊直弼が結んだ勅許を得ない不平等条約を破棄した上で、
改めて結ぼうというものだった。

松平春嶽も破約攘夷を唱えたが、慶喜は先延ばしに..
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徳川慶喜 第27回 幕政改革

(1998日)

文久2年(1862)8月21日に起こった生麦事件だったが、
慶喜が知ったのは翌日で、幕府から公式に知らせがあったのがその翌日だった。


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(熊本藩士 横井小楠)

慶喜は、政事総裁職の越前藩主松平春嶽の知恵袋を呼んだ。
横井は、諸外国の実力を語り、幕政を改革し海軍を持つべし、
又、諸大名の意見を聞くことと進言した。

横井の息子の時雄は明治期、同志社で学ぶ。
『八重の桜』で熊本バンドが新島襄を困らせ泣かせていた者がいたが、
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徳川慶喜 第26回 生麦事件

(1998日)

文久2年(1862)6月に勅使が江戸に着き、
一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職を幕府に飲ませた。


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久光は、慶喜と春嶽に勅使の大原との会談の席に同席したかったが、
老中らは無位無官の久光を外したかった。
久光は老中を外したかった。

久光にとっては、「してやった」との思いだったが、
慶喜と春嶽は、頼んだ覚えはなかった。


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すったもんだの末、大老たる政事総裁職がいるので老中は外し、
久光が加わった。(..
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徳川慶喜 第25回 将軍後見職

(1998日)

文久2年(1862)5月、勅使が江戸へ下向することが決まった。

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(松平春嶽)

老中板倉勝静は、越前福井前藩主の松平春嶽に幕政参与を申し出た。
勅使に言われて飲まされるのではなく、自ら先に決める必要があった。

春嶽は引き受けたが、一橋慶喜を将軍後見職にと推した。
が、将軍家茂は17歳になったので、その必要はないとしたが、
春嶽がしつこかったので、持ち帰ることにした。


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(和宮付女官 重子 , 上臈 高部)
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徳川慶喜 第24回 久光上洛

(1998日)

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(孝明天皇 岩倉具視)

薩摩藩の卒兵上京の件で、岩倉が御所で孝明天皇に報告する。
幕府は和宮降嫁の条件である7~10年での攘夷の約束がありながら、
そのことを諸大名に知らせず、又、プロシアと条約を結ぶなど、
何を考えているか分からず、場合によれば御所に向かってくると説明し、
薩摩の上洛にお墨付きを与えることを求めた。


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( 議奏・中山忠能 大納言・近衛忠房  島津久光  議奏・三条実愛 岩倉具視)

文久2年..
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徳川慶喜 第23回 和宮下向

(1998日)

万延元年(1860)12月、アメリカ公使館員の通訳ヒュースケンが殺された。
犯人は脱藩した元薩摩藩士の伊牟田尚平だったが、
幕府は水戸藩士に疑いの目を向けていた。


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(久世広周 内藤信親 安藤信正 本多忠民)

井伊直弼の死により、久世安藤政権となっていた。
和宮降嫁の条件として攘夷を7~10年で実現と約束していたが、
新たにプロイセンと条約を結んだので、降嫁の延期となる。
京都所司代の酒井忠義のネジを巻くこととなる。

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徳川慶喜 第22回 母と子

(1998日)

安政7年(1860)3月3日、桜田門外にて井伊直弼は死んだ。
そして、同年、8月15日、水戸に永蟄居となった徳川斉昭が他界。

和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、結納はまだなので、
幕府は井伊の公武合体路線を引き継ぎ関白九条尚忠に働きかけた。


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生母勧行院が死で降嫁を阻止しようと決意したが、和宮は気づいて止めた。


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九条は侍従の岩倉具視に、自分が悪者になっているのを愚痴った。


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岩倉は、和宮降..
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徳川慶喜 第21回 兄と弟

(1998日)

安政7年(1860)3月3日、桜田門外にて井伊直弼は死んだ。
そして、同年、8月15日、水戸に永蟄居となった徳川斉昭が他界。


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(薩摩藩主・島津忠義、国父・島津久光)

井伊の死で、これまでの幕府ではなく、
斉昭の死で、これまでの水戸藩でなくなったことに、喜びを噛み殺す。

卒兵上京で帝をお守りする必要がある、と語る。


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(永原、水戸藩主・徳川慶篤、吉子)

cは、分裂する家臣団に悩んでいた。
御三家・御..
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徳川慶喜 第20回 慶喜変身

(1998日)

安政7年(1860)3月3日、桜田門外にて井伊直弼は死んだ。
そして、同年、8月15日、水戸に永蟄居となった徳川斉昭が他界する。


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松島が斉昭の無念を思い、号泣した。
が、原作小説では、松島は19位の設定で用事で斉昭の屋敷へ行って手籠めにされているので、笑うところとなっている。


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有栖川宮家出身の吉子が斉昭亡き後の水戸藩や慶喜、朝廷のことなどを憂う。


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永原を奥に呼ぶが、恐縮する様子を懇切丁寧に描く。
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徳川慶喜 第19回 父の死

(1998日)

安政7年(1860)3月3日、桜田門外にて井伊直弼は首を切られた。


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その日、老中が集まり、右端の脇坂(佐々木功)が仕切った。
斬奸趣意書が脇坂宅に届けられた。
井伊の罪を挙げ、幕府には他意はないとした。
この趣意書は全員が懐中に所持していた。

彦根藩の水戸藩への戦闘が始まるを恐れ、幕府は「軽傷」にした。
実際は「重症だが生存」ということにしたようだ。

跡継ぎを決めずに藩主が横死した場合に家名断絶となることもあり、
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徳川慶喜 第18回 桜田門外の変

(1998日)

安政5年(1858)7月、井伊直弼は、条約調印で文句を言ってきた連中を処分した。

徳川中納言斉昭、謹慎。松平越前守慶永、隠居謹慎。
徳川大納言慶勝、隠居謹慎。徳川中納言慶篤、登城停止。
徳川刑部卿慶喜、登場停止。


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この段階では、慶喜もまだ、心に余裕があり、
『町娘、恋の春雨』を読む。


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安政6年(1859)一橋家家老の土岐朝義が倒れた。
藩主の慶篤を変えようとする動きもあり、気をつけてください、
とのこと..
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徳川慶喜 第17回 安政の大獄

(1998日)

安政5年(1858)4月に井伊直弼が大老に就任、直弼は勅許が欲しかったが、
条約調印が早々と部下が調印した。

が、怒りは直弼に集中。徳川斉昭や慶喜、徳川慶勝、慶永などが抗議に来ると、
無断登城を理由に隠居や謹慎を命じたことから安政の大獄が始まった。
この初期の処分は第13代将軍徳川家定の命で行われたが、むろん直弼初だった。


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が、家定が死去。10月25日に第14代将軍となった紀州藩の慶福は家茂と改めた。


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(水..
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徳川慶喜 第16回 大獄のはじまり

(1998日)

安政5年(1858)8月、密勅が発せられた。

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(老中・間部詮勝  大老・井伊直弼)
   
 九条関白を通さない勅諚の背景を分析する。
鷹司輔煕・近衛忠煕・中川宮・正親町三条の陰謀とした
背後に水戸の老人・徳川斉昭が公家を煽ったとする。

井伊は、間部に天子様に会って条約調印の事情を説明し
この世を乱す者を取り締まるよう命じた。

井伊の願いは公武合体とし、
慶福(家茂)が将軍となれば、和宮を御台所に迎えるとした。

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徳川慶喜 第15回 密勅

(1998日)

安政5年(1858)7月5日、幕府は、押しかけ登城した者たちの処分を発表した。


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(久世広周、井伊直弼)

 7月6日の幕閣会議。10日にオランダ、11日にロシア、18日に英国との調印を控えていたフランスは9月3日となる。

 「ロシアとの国境画定は択捉島と得撫島で線引きしました。」
と久世が答え、
 第13代将軍家定の死を隠すことを直弼は閣議で確認。

 「公家に出入りする侍を見逃すな」とも念の入りようだった。
 
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徳川慶喜 第14回 押しかけ登城

(1998日)

安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が調印となった。
全権の岩瀬や井上が「あっさり」決めてしまったので、
大老の井伊直弼は失意と怒りであったのだろうが、杉さまは顔に出さない。


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6月23日、慶喜が登城し、直弼を責め立てた。
東海道と中山道の2経路で朝廷に直弼は文書で報告した。
慶喜は勅許無しの調印でしかも、「宿継奉書」という手段での事後報告を責めたが、
直弼は、素早い報告で次に老中に行かせるとした。
また、将軍..
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徳川慶喜 第13回 幕府の権威

(1998日)

前回、安政5年(1858)4月23日、井伊直弼は大老に就任した。


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就任挨拶
「大事なのは私見にあらず、大事なのは我が国の命運でござる」


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堀田邸で、ハリスに通商条約調印の3か月の再延期を申し出る。
井上清直と岩瀬忠震の2人はこの時期行動を共にし同席していた。
ハリスとヒュースケンは来日して約2年となりウンザリだった。



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米国海軍ミシシッピー号が来航。
ハリスは英仏艦隊が間もなく来ると知らされ、..
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徳川慶喜 第12回 日米通商条約

(1998日)

安政3年(1856)7月にハリスは下田に来航し、翌年5月に下田協定となる。
そして7月、アメリカ軍艦一隻が来たことにより、
幕府は、引き延ばしていたハリスの江戸出府と将軍謁見を許可した。


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幕府の譲歩に怒る幕政参与を終えた徳川斉昭は息子の慶喜に、
「何か手を打て、ワシはスデに手を打った」
と期待する。


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太閤となった義兄の鷹司政通に水戸藩京都留守居役から手紙を渡した。
斉昭は、以前は開国止む無しのは承知してい..
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徳川慶喜 第11回 台風の目

(1998日)

慶喜の側近だった新三郎が愛人みよと逃げたが、それを手伝ったのが新門辰五郎だった。


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辰五郎は、一橋家を訪ね、慶喜に詫び腹を切ろうとした。


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安政3年(1856)7月21日、ハリスが来航したが、
ハリスは日米和親条約を根拠に領事として日本に滞在するつもりだった。
が、条文解釈の違いだったが、幕府はハリスに押され玉泉寺を仮の宿として用意した。
が、ハリスは8月6日に星条旗を掲げ領事館とした。


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下田奉行の..
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徳川慶喜 第10回 抗争のはじまり

(1998日)

前回までは、架空ネタが多く楽だったのですが、今回、急に政治色が濃くなる。

安政3年(1856)、水戸藩藩主徳川慶篤と前藩主斉昭に毒が盛られるという事件が起きた。
幸い、2人の命には至らなかった。


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藩主慶篤は、弟の慶喜を水戸藩小石川上屋敷に呼び、
毒殺の犯人は「天狗」の連中で、父斉昭の意向、と言った。

慶喜は否定したが、慶篤の疑いは固かった。
幕政参与になった斉昭だったが、老中首座の堀田を「異国の手先」と罵り、
登..
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徳川慶喜 第9回 恋の闇路

(1998日)

安政3年(1856)、慶喜の側近 村田新三郎は、前年末に結婚したが、
旗本の早川重吉の愛妾みよ との関係は続いていた。


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待ち合わせで偶然早川に見つかり、剣を抜くことになった。


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早川が悪人に見えるが、新三郎が欲ボケだった。
しかも、早川を殺してしまう。


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偶然、「を組」の組員ガンツム(山下真司)に見つかり、
事務所まで連れていかれたが、頭夫婦が相談に乗ってくれた。

他人に見られてないとのことで..
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徳川慶喜 第8回 新婚生活

(1998日)

安政2年(1855)12月3日に慶喜は一条家の美香子と結婚した。

登城した慶喜だったが、仕事があるわけでもなく、
挨拶まわりだけだった。


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そこへ、越前福井藩主の松平慶永が挨拶にきた。

慶永は御三卿田安家から越前へ養子に入り11歳で藩主となった。
また、田安からは5代7代と一橋へ養子となっている一番近い親戚なので信頼してくれ、
とのことだった。



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その頃、町火消「を組」構成員3名が上海に渡って一旗揚げ..
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徳川慶喜 第7回 公家の花嫁

(1998日)

安政2年(1855)10月2日、江戸で大地震が発生。
水戸藩江戸藩邸上屋敷では、重臣の藤田東湖・戸田忠敞が圧死する。


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前藩主徳川斉昭は、「早く助け出してやれ」と命じた。


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10月9日に、阿部正弘は老中首座を堀田正篤に譲った。
堀田は、かつて老中だったことがあり病気として辞任した後、
江戸城溜間詰という高ランクに位置しており発言力を残していた。

そこで体力的にも疲れていた阿部が実権は残し堀田を頭に置き、
震災..
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徳川慶喜 第6回 安政の大地震

(1998日)

前回、嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約が締結された。

この年正月、薩摩藩主島津斉彬が参勤交代で江戸に向かう。
随行していた西郷隆盛は4月にお庭方となり斉彬の命を直接受けることとなる。


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斉彬の手紙を東湖に届けに来たと『翔ぶが如く』も同様の出会いとなる。
が、4月10日に先に知遇を得ていた薩摩藩士の樺山三円の紹介が事実のようだが、
ドラマ化にあたり簡略化されたのやもしれません。


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島津斉彬が..
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徳川慶喜 第5回 日米和親条約

(1998日)

嘉永7年(1854)1月、ペリー再来航の月となる。が、1年後のはずだった。
第12代将軍家慶の死を知ったペリーが笑いながら日本に向かっていた。


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この月、平岡円四朗(新井康弘)が一橋家雇小姓となる。
後に暗殺されるが、『翔ぶが如く』では山縣有朋を演じ、渋いところを攻めてくる。


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水戸藩前藩主 徳川斉昭は、16歳となった慶喜に社会の勉強をさせてくれと、
町火消「を組」の頭夫婦に頼んだ。
その際、10年維持できるという..
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徳川慶喜 第4回 将軍候補

(1998日)

嘉永6年(1853)6月3日に浦賀の黒船来航。22日に家慶が他界。
が、将軍の死は隠されたまま次期将軍を誰にするか,となった。


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一橋慶喜は家定に謁見する。


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福井藩主松平慶永は、老中首座阿部正弘に会いに来た。
黒船の件、次期将軍の件と、意見を交わす。
水戸ご老公、徳川斉昭の力を借りることにする。


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(藤田東湖 戸田忠敬 安島帯刀)

斉昭は海防参与となり、ペリー再来航に備えることとなる。
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徳川慶喜 第3回 黒船が来た

(1998日)

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嘉永5年(1852)水戸藩駒込中屋敷にて、藩主慶篤は、父が結城を退け藤田東湖など天狗派を引き上げたことに怒りをぶつけた。
斉昭は「よかろう様」と言われぬように注意した。


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嘉永6年(1853)6月3日浦賀午後5時。4隻の艦隊は停泊。


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その日の晩、慶喜は就寝中だったが、家老の土岐朝義が来訪。
黒船の件と、老中から「火事装束」と指令してきたとの知らせだった。
斉昭からは「甲冑」でと老中の指令を知った上で指示して..
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徳川慶喜 第2回 新しい母

(1998日)

生まれてすぐに水戸に移された七郎麿は、弘化4年(1847)8月、
江戸で暮らすことになった。母と会うこととなる。


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第12代将軍徳川家慶は、一橋家の養子に七郎麿を迎えるよう老中首座阿部正弘に命じた。
御三卿一橋家の第8代当主昌丸が夭折しようとしていた。
前藩主徳川斉昭が養子しないという方針を知ってはいたが、謹慎解除を付けた。



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その頃、水戸藩駒込中屋敷で町火消「を組」を招いていた。


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頭の新門辰五..
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徳川慶喜 第1回 母の不在

(1998日)

年内で『翔ぶが如く』を見終えようと予定を組みましたが週4ペースはきついので、
別の作品を入れることにしました。幕府の視点で評価の高い『徳川慶喜』を鑑賞することにします。


徳川慶喜、幼名・七郎麿(しちろうまろ)は天保8年(1837)に水戸藩の江戸藩邸で生まれたが、すぐに水戸に移され母を知らずに育った。

父は、第9代藩主徳川斉昭、他の幕末ドラマでは老害の扱いだが、
この作品では英邁な君主としている。



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天保15年(18..
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