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その時歴史が動いた 織田信長・勝利の方程式 〜真説・長篠合戦〜 [歴史動画]

(2000日)天正3年(1575)5月21日、武田15千は織田徳川38千に突撃した。

中学生の時に、勝頼が馬防柵に突っ込み、3段構え3千の信長鉄砲隊でヤラレタ、
と確か覚えた。

「以後、よーさん増えた鉄砲伝来」から32年も経って、
これでは勝頼はマヌケ過ぎる、少し変だな、とは思っていた。


が、現実は異なり、まず、梅雨時期であること、
武田側も鉄砲を持っており、信長はこの戦いを鉄砲の力で勝とうとは思っていなかった。

長篠城を守る奥平定能の息子に娘を嫁がせた家康だったが、
長篠城の守りは通常の外堀と内堀に更に中堀の3重とし、
500の兵で武田15千に耐え忍んだ。
援軍が来ることを知らせるために鳥居強右衛門は死を選んだ。

信長3万と家康8千だったが、陣城を作った。
雨で視界が閉ざされている中、1日で作る。

大軍勢を前に信長は誘い込む必要があり、酒井3千に奇襲させ両脇を挟む形となる。
そこで、勝頼は突撃することとなった。


裏切り者の奥平を成敗することと、代替わりがあって、
勝利で家臣団をまとめたいと焦っていた。
雨を待つなり、撤退の進言も、採用できなかった。残念ですね。

nagasino.jpg
http://tactical-media.net/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%95%97%E5%9B%A0/



長篠合戦・実際は 攻城戦だった・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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