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草燃える 総集編 第3回 征夷大将軍

(1979日)

文治元年(1185)3月、平家を滅ぼした。
が、後白河法皇は功労者たち24人に官位を与えた。


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4月、激怒する頼朝は、勝手に受けた者たちに、
「月夜の晩ばかりではないぞ」「・・・れば、命は無いものと思え」
など、手紙を書かせた。



4月24日、義経、壇ノ浦から京へ凱旋。
5月15日、義経、鎌倉へ向かうも入れなかった。京へ引き返した。


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10月17日、頼朝、土佐坊昌俊に義経を襲撃させた。
     義経は土佐坊を晒し首にし、頼朝、激怒。

11月、義経は西国へ逃げ、法王は、鎌倉の要求のほとんどを認めた。


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文治2年(1186)4月、静御前は鎌倉武将らの前で義経を想う舞を披露した。
頼朝は激怒したが、政子が取り成し助かった。
が、身籠っていたので、大姫(頼朝の娘)は「鎌倉から逃げなさい」と助言。
男児だった場合は殺すために、鎌倉で暮らすよう勧められたのだった。
大姫は、婚約者だった木曽義仲の嫡子義高を父に殺された恨みがあった。


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文治5年(1189)閏4月30日、義経、死去。享年31。

建久3年(1192)は、頼朝にとり節目の年となった。
 3月、後白河法皇崩御。享年66
 7月、後鳥羽天皇より征夷大将軍となる。
 8月、次男、実朝誕生
 9月、北条義時(松平健)比企の娘と婚姻。


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NHKオンデマンド 草燃える 総集編 第3回 征夷大将軍

建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りにて、後に第2代将軍となる頼家(鶴見辰吾)、鹿を射る。

少年時代は(武将としては)優しそうな男の子だったが、
2014年の『軍師官兵衛』にて小早川隆景で毛利家を支える。



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