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麒麟がくる (30)「朝倉義景を討て」

(2020日)

永禄12年(1569)夏、光秀は二条城で駒とすれ違う。
将軍足利義昭に用があった。


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貧民の救済や医療の為にと、駒は貯めた銭を献上していた。
義昭は秘密の通路を使って外に出た。蛍を見るという。
まだ夕方だった。



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岐阜城では、商人から召し上げた品々の鑑定を松永久秀が行っていた。
将軍側近の三淵が来て、信長から朝倉攻めの参加の件で、
幕府は朝倉に世話になったことがあるので参加できないと伝えたとのことだった。


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従妹の帰蝶とは9年ぶりの再会だった。信長の嫡男信忠を赤子の頃より育てていた。
信長は長男に奇妙丸、次男に茶筅丸など、名前で遊んでいた。


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信長に朝倉攻めにあたり、天皇の勅命を得ることを示唆し京に向かうことになる。
が、光秀の岐阜城登城の日時を事前に知った信長がわざわざ妻子を呼んでくれていた。
感動の再会、ドラマだった。
京で同居することにするが、どうやら母は他界したようだ。



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信長は昇殿資格が無かったが、特別に許された。


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正親町天皇は信長を頼りにされ、「当代一の武将なり」と褒め、
「この都、畿内を平らかにすべし」と勅命をお与えになった。


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朝倉義景は、友人である政所執事の摂津晴門から手紙を受け取った。
信長が朝倉攻めの準備をしていることの連絡と、
信長を討って、幕府を支えてくれることを望んだようだ。


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二条城にて、勅命により信長から若狭攻めの協力を光秀は幕府に伝えたが、
義昭は中立でいると席を立つ。

若狭まで行き朝倉を討つとの本音は透けていることを摂津は見抜き、
諸大名に支えられる幕府が理想であるとした。
今日の幕府があるのも、信長や光秀の功だけでなく、
三淵が朝倉義景の息子の毒殺で、越前を出国することができたと暴露した。
薬を調達したのが摂津の配下の者からだった。

三淵の奸計とのことだったが、口だけの示唆で成功させたのではなく、
自ら準備し他人に知られ、頭上がらなくなっていた。
三淵はやむを得なかったこととし居直った。


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NHKオンデマンド 麒麟がくる (30)「朝倉義景を討て」

永禄13年(1570)4月、信長は妙覚寺で出陣式を行い、朝倉攻めとなる。
最前列左より、光秀、柴田勝家だが、
182㎝の木下藤吉郎はやや後方のド真ん中でしょう。

天正10年(1582)6月2日では、この妙覚寺には奇妙丸こと信忠が宿泊していた。





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