SSブログ

麒麟がくる (31)「逃げよ信長」

(2020日)

永禄13年(1570)4月、信長は妙覚寺で出陣式を行い、朝倉攻めとなる。


kirin311.jpg

摂津池田勝正、大和の松永久秀、三河から徳川家康も加わり、織田3万の軍勢となった。
天筒山城、金ヶ崎城、疋檀城を数日で落とし敦賀を抑える。


kirin312.jpg

尾張で人質だった幼少の頃に美濃から潜入していた光秀の昔話をする。
信長に報告するぞ、との脅しではなかった。


kirin313.jpg

越前の朝倉義景は浅井長政が信長の義弟となったが、
祖父の亮政の代から朝倉家が支えて南近江の六角と戦った縁があり、
存命する久政の動きに期待した。


kirin314.jpg

長政は、信長の妹の市を迎える際に朝倉攻めはしない約束があり、
今回の戦で朝倉につくことを市に告げる。


kirin315.jpg

市が、小袋の両端を結んで信長に届け「袋のネズミ」と示唆した話もあるが、
茶々も誕生しており、生かして復讐される可能性を選択するとは考えにくい。


kirin316.jpg

長政が兵を越前に向けたとの報告を光秀は左馬助から受けた。
信長に逃げるよう進言するが、ここで第1回目のケリを入れられた。


kirin317.jpg

が、光秀は生きることを土下座して頼み、信長は受けた。


kirin318.jpg

「雄叫び」を済ませ、逃げることを告げた。
信長は光秀に後の采配を任せた。


kirin319.jpg

秀吉は当時、1000人隊長で、まだ家臣団の中で武将として認められていなかった。
殿を務めることで、名が残ることも本望だとした。
「金ヶ崎の退き口」の殿は、「秀吉だけ」で語られることもあった。
実際は、光秀、秀吉、池田勝正だった。
が、後に、秀吉の天下となると、泣いてお願いして殿にさせて貰い、
その功績を公平に知らしめてくれた光秀様様だったことを秀吉は無かったことにしたようだ。



kirin319a.jpg
NHKオンデマンド 麒麟がくる (31)「逃げよ信長」


二条城で第15代将軍足利義昭は、信長の敗退を知った。

信長との関係は悪く、前年永禄12年1月に「殿中御掟9か条」で制限され、
更に今年1月に「5箇条」が追加されていた。

義昭にとっては、もはや信長は父でも兄でもなかった。
本気で室町幕府の再興を考えるにせよ信長の意思と衝突するのは必然であり、
父や兄なぞ、はじめから幻想に過ぎなかった。






コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。