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柴裕之 天下人・織田信長の実像に迫る [講義等]

(2020日)

柴裕之
東洋大学文学部史学科非常勤講師/文学博士
戦国・織豊期の政治権力と社会に関する研究


(1)戦国時代の日本のすがた
(2)足利幕府と天下再興
(3)「天下布武」と室町幕府再興
(4)足利義昭追放から安土城へ
(5)朝廷・寺社との関係
(6)天下人としての「天下一統」
(7)織田政権への忠義
(8)織田信長の政治構想
(9)本能寺の変・前編
(10)本能寺の変・後編
(11)「有姿」を求めた天下人・織田信長


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10mTV 柴裕之 天下人・織田信長の実像に迫る


今回も面白かったですね。信長の解説を約110分に凝縮されている。

特に、私が不勉強だったところが、元亀4年から。
元亀4年(1573)2月に義昭が信長と敵対し、7月に追放となる。
そこからの解説が官位役職、信忠との関係で詳しい。

天正元年となるが、敵対勢力と戦い続けるが、天正3年、甲斐武田に長篠の戦で勝利。
「従三位権大納言兼右近衛大将」となり、義昭と匹敵し、
「正二位右大臣兼右近衛大将」で義昭を超える。
が、天正6年には辞官、信忠に織田家の家督を譲り、信忠に高官を希望する。
最強大名という次元から、天下人のステージに移行した。


「本能寺の変」も信忠との関係や四国問題で語られる。
阿波の三好が降ったので、土佐の長宗我部に阿波から引くよう命じたが、
長宗我部にとっては面白くない。光秀配下の斎藤利三との縁で親しかったが
信長は三好を取った。

この四国問題と、家康の世話をする信忠が偶然に本能寺の近くの妙覚寺で泊まることになった。
この2人が権力の中枢で、またとないチャンスだった。

あくまで信長を同時代から逸脱した存在でないとし、
秀吉の電光石火の「中国大返し」で光秀は敗れたとする。

寺社や朝廷を保護した面も詳しく、多くを学ぶことができました。






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