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麒麟がくる (35)「義昭、まよいの中で」

(2020日)


元亀2年(1571)秋、光秀は琵琶湖西岸の志賀郡2万石の城持ち大名となった。
京の自宅にて設計図を描いていた。


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木下藤吉郎が挨拶に来た。
光秀が室町幕府再興のスタンスなのに対し、
藤吉郎は、自分の生い立ちから幕府なぞに感謝するような経験はなく、
100年続く戦乱に無力な幕府なぞ見切り時だと吐き捨てた。


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摂津晴門が、本圀寺にて光秀を討つ決断をした。
幕臣でありながら信長と朝廷よりの政治を頭越しに行っているのが気に食わなかった。
浅井朝倉武田に働きかけ包囲網を築いたとし、
光秀を討ち信長の勢力を削ぐこととした。


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望月東庵の診療所に秀吉の母なかも通っていた。
学問教養に乏しい母だったが、偉そうに振舞えた。


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光秀の妻子を人質として京に置くと耳にした駒は義昭に抗議。
義昭は、摂津晴門に従うしかない、情けないが殺してくれと、駒に迫った。


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光秀殺害計画を知った駒は伊呂波太夫に頼み、本圀寺に細川藤孝勢を集結。
光秀は藤孝に感謝するも気にせず義昭の部屋に向かう。
右足を負傷する。


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3年前の「本圀寺の変」で三好三人衆の襲撃で防戦した昔話と
坂本を返上し京で共にするという光秀の覚悟を聞いた義昭は感激する。
三淵藤英に摂津晴門の身柄拘束を許可した。


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摂津にすれば、将軍義昭とは「永禄の変」で共に家族を失い、
共に三好三人衆を憎み、増長する信長を嫌った。マサカだった。


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信長が幕府より重きを置く帝のことを光秀は調べ始めた。
伊呂波太夫と三条西実澄へ向かった。


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地獄耳の正親町天皇は三条西実澄に光秀を連れて来るよう命じた。


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NHKオンデマンド 麒麟がくる (35)「義昭、まよいの中で」


御所へ参内することになり、三条西実澄宅で着替えた。
伊呂波太夫とすれば、15年前弘治2年(1556)の「長良川の戦い」で、
美濃の斎藤道三が息子義龍に殺され、光秀が美濃を逃れ越前へ向かうのを助けてやり、
朝倉義景の援助を断って貧乏生活していた阿呆の姿に笑うしかなかった。

駒と伊呂波太夫、様様の人生だった。




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