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麒麟がくる (36)「訣(けつ)別」

(2020日)

元亀3年(1572)冬、光秀は御所に参内。


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正親町天皇に、その名を覚えておく、と言われ感激する。


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帰宅すると、柴田勝家、佐久間信盛、木下藤吉郎秀吉が来ていた。
大和で筒井順慶と松永久秀が争っていたが、
筒井に味方し久秀を討つのは、浅井朝倉との戦いと力を分散させることになり、
義昭の計略だと秀吉は看做した。
この頃には、秀吉は、古参の勝家や佐久間を「甘い」と小馬鹿にするようになる。


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帰宅間際、佐久間信盛は光秀に、
比叡山で女子供を逃がし、信長に正直に言ったように、
今回も正直であってほしいと 澄んだ瞳で頼んだ。
信長に直言して聞き入れられても良し、信長がキレて光秀を遠ざけても良しという、
幼少の信長から仕えた信盛の腹だったのやもしれません。


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二条城では、義昭が剣術稽古に励んでいた。
剣豪だった亡き兄義輝に学びたかった。
光秀に稽古をつけてもらったが、はじめから勝てないのが分かっていた。
機嫌を悪くするという愚を犯した。


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琵琶湖西岸、坂本城を訪ねた。


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元亀3年(1572)10月、甲斐の武田信玄が出陣する。義昭の討伐令だった。
家康の恐怖に震えるシーンがあってもよかった。


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信長は佐久間信盛らに3千の兵をつけ、援軍に向かわせた。
が、光秀はせめて更に2千つけるよう進言するも、
浅井朝倉にも兵を割かねばならないと、信長は聞かなかった。

先の松永久秀との戦いに置いて兵を出すも信長は出ず、久秀を逃がすことになり、
アリバイ程度に出陣することが本心のようだった。

将軍義昭のご機嫌を得るため、鵠(くぐい)を用意し、光秀に届けさせる。


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信長は9月、「異見17か条」を義昭に送っていた。
細かいことを書いていて義昭はキレた。信長と訣別することに決めた。

宮中参内を怠っているから義輝が不幸な最期となった。
諸国から馬を献上させている。
褒美が偏っている。

また、駒と交際中にもかかわらず、
寝所に男を呼んで、褒美ではなく代官職までやっている。

など、事細かに書き記していたようだ。


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NHKオンデマンド 麒麟がくる (36)「訣(けつ)別」


光秀は、義昭方につくよう迫られたが、
できないと断り、出て行った。

義昭は、光秀は鳥だとし、また戻ってくるやもしれないと、
自由にした。





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