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青天を衝(つ)け (4)「栄一、怒る」

(2021日)


嘉永6年(1853)、ペリーが来航し情勢認識に長けていた一橋慶喜は、
父斉昭の期待を無視し将軍職に関心がなかった。
斉昭は息子の側に置くべき人間として藤田東湖の勧めで平岡円四郎を付けた。


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平岡が一橋家へ挨拶に行く。小姓ということで食事の用意も含んでいた。
動かない平岡に、家老の中根長十郎が催促する。
平岡の無作法が天然だと知った慶喜は自ら教えてやり感動させる。


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当時、慶喜が16、平岡が31の頃だった。


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その頃、血洗島では収穫慰労会が行われ、渋沢栄一が14にして仕切った。
権兵衛を上座に座らせ、良質の藍葉だったことで「大関」とした。


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番付にした。


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昨年まで上座を独占していた角兵衛が前頭となり激怒かと思われた。
が、面白いじゃないか、と来年の大関を予告。盛り上がり、
栄一の能力主義の導入が成功した貴重な体験だった(のでしょう)。
栄一は、阿波の藍玉に勝つことが当面の目標だった。


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年が明け、ペリーの再来航となった。
空砲に井伊直弼は怯み即刻の開国を老中首座阿部正弘に迫るが、
斉昭は、断固反対ではなく、原理的に反対の立場で、
あまりにも素早く開国することに叱ったのやもしれません。


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3月3日の和親条約を知り、尾高惇忠がキレる。


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母のやへと妻のきせが驚く。


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岡部藩から500両要求され、即答を避け後日返事すると主張するが、
そういう眠たいことが通るはずがなく、隣にいた伯父さんに強制的に頭を下げさせられた。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


父に「泣く子と地頭」と諭され、納める。





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