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青天を衝(つ)け (7)「青天の栄一」

(2021日)


安政4年(1857)6月17日、阿部正弘(伊勢守)が死去。


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勘定奉行で対ロシア全権で日露和親条約を締結した川路聖謨が、
平岡円四郎宅を訪ね、阿部の死を知らせ意見交換。


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老中首座を安政2年の大地震後に阿部に譲られていたが、
阿部死去により、名実共に堀田正睦(備中守)が中枢となった。


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(永井尚志、川路聖謨)

徳川斉昭が幕府に自身をアメリカに行かせろと要求。
また、姉婿が前関白鷹司政通で幕府批判の手紙を送り朝廷に影響を与えていた。

事態を憂慮した堀田が2人を送ってきた。
永井は旗本で昌平坂学問所で学び嘉永6年に目付となり、
長崎海軍伝習所で勝海舟や榎本武揚を教え、江戸に戻ってきた切れ物だった。


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(斉昭、慶篤、武田耕雲斎)

斉昭は2人に暴言を吐き「好きにしろ」とキレたものの、
開国止む無しということは分かっていたため、酒を出させた。

武田耕雲斎は消極的ながら天狗党の首領にさせられ一族悲惨となるが、
妾に産んだ娘の夫が大久保利通を暗殺することは知る由もなかった。

以前に幕府から隠居謹慎にさせられ自分の味方の家臣にも辛くさせた経験があり、
慶喜と妻の吉子に説得され、仕方なく堀田へ、「もうしない」旨手紙を書いた。


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美賀が慶喜の将軍への意思を聞いたが、慶喜は公儀が滅ぶと否定した。
が建前と受け取る。



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平岡円四郎が慶喜を将軍にするための原稿を書いていたが、
橋本左内が手直しし、越前福井藩主松平慶永が老中首座の堀田へ建白した。

が、将軍家定の脇には大奥事務局長の歌橋がおり、
慶永や慶喜の意向にことごとく否定する。


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真田範之助に思誠塾に連れられた長七郎。
塾頭の大橋訥庵に気に入られる。


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栄一は尾高惇忠と登山を楽しむ。
頂上に着くと、天に手を伸ばし、興奮した。


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(家定、歌橋、井伊直弼)

堀田は老中首座は荷が重いと松平慶永を勧めてきたが、
家定は慶永や慶喜が嫌いだったので困っていた。
そこへ、彦根藩主の井伊直弼が挨拶にきた。誰だか知らなかった。


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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


が、直弼の反射神経は抜群だった。





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