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青天を衝(つ)け (21)「篤太夫、遠き道へ」

(2021日)


慶応2年(1866)7月に将軍家茂が他界し、慶喜が徳川宗家を継ぐことになった。
幕府勘定奉行小栗忠順は翌年4月のパリ万博の件を慶喜にお伺いする。


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慶喜は原一之進に命じ、渋沢篤太夫を随行させることにした。
見立養子が必要になり、従弟の尾高平九郎にする。


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その頃、成一郎は江戸に向かっていた。故郷にも立ち寄る。
師でもあった尾高惇忠にも現況を理解してもらい安堵する。
2人も共に慶喜の下で働くよう説得。


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孝明天皇は病の身体で4時間にわたる御神楽をなされた。
ワクチン接種済みの睦仁親王は見舞うも数日後に崩御される。


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岩倉具視は驚いた。妹が孝明天皇の典侍で父子共重用された経緯もあり、
岩倉暗殺説は考えにくい。


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篤太夫は二条城にて慶喜に謁見。慶喜は弟昭武に心得を伝えた。
ヨーロッパ各国を訪れ挨拶すること、フランスで3~5年学問を修める、
日本で事変があってもみだりに動くな、一和に円満に努めよ。と語る。


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慶喜は次の将軍を昭武と考えていた。
もっとも幕府が続いていればの話だった。


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昭武、篤太夫ら一行はまず神奈川に向かった。
駐日仏公使レオン・ロッシュが昭武に挨拶。


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(福地源一郎、福沢諭吉 高松凌雲 杉浦愛蔵、渋沢篤太夫)

福地はモンブランには気を付けろと教えてくれる。
交際を求めてくるのを断ると薩摩に近づいたということだった。


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小栗からも指示を受ける。
横須賀製鉄所が幕府の行末を超えて日本のためになることを聞く。
昭武の3~5年の留学費用について聞くとキレられた。
高崎城乗っ取り計画、横浜焼き討ち計画をもちだされる。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


小石川代官所に寄ると成一郎と再会。
長七郎との面会が叶う。
罪無き人間を殺めてしまった善人が立ち直るのは難しかった。






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