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青天を衝(つ)け (22)「篤太夫、パリへ」

(2021日)


慶応3年(1867)1月、昭武一行は横浜を出航、パリへ向かった。


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3月、階段を上り、フランスの光景に感激したようだ。


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会場の様子も再現される。
栄一たちはエレベーターで屋上に上がり、絶景を眺める。
科学技術、国力を目の当たりとし、「参った」と完全に攘夷思想が砕かれた。


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幕府は日の丸を掲げて展示した。


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薩摩も琉球国として展示していた。
そこへモンブランが現れた。


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外国奉行支配組頭田辺太一が島津藩家老岩下方平にクレーム。
幕府の権威にとって日本に2つの国が存在なぞ許せるはずがなかった。
そこでモンブランは日本語で薩摩を太守にすると提案し、田辺は了承。


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が、フランス語では「政府」となっており、ハメられたと知る。
新聞で日本が連邦国家で徳川が大名の1つとの印象が拡散される。


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ナポレオン三世に謁見。


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昭武は、兄「源慶喜」からの親書を読み上げた。


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5月、薩摩の島津久光は、京都で四侯会議を招集。
越前春嶽、土佐の容堂、宇和島の伊達宗城に、慶喜を加える。
久光は長州のことはどうするつもりかと慶喜にキレてみせた。
薩長同盟で裏で武器を与えながら、幕府の弱体化を図る役者ではあった。
が、慶喜は、記念撮影をしたり、会議を紛糾させる。



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NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


パリでは栄一たちは、傷病兵が国費で治療を受けていることに驚愕する。






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