SSブログ

青天を衝(つ)け (30)「渋沢栄一の父」

(2021日)


明治2年(1869)12月末に大蔵省に改正掛を設けた。
栄一が入って2年半、度量衡の改正、租税の改正、駅伝法の改良、
貨幣制度、禄制の改革、鉄道布設案、諸官庁の建築、全国の測量と、幅広く手掛けた。
が、官吏の腐敗、規律の乱れ、財政事情と新政府は問題をかかえていた。


seiten3001.jpg

明治3年末、正式に勅使として岩倉具視、副使に大久保が薩摩へ来て、
国父島津久光の上京を促すも久光は固辞。
翌正月、西郷が薩摩から上京することとなった。


seiten3003.jpg

明治4年春に大蔵卿だった伊達宗城が辞職し、大久保利通となる。
大隈が参議で、大阪の造幣局にいた井上馨が大蔵大輔となり東京に来たようだ。
また、明治3年末より金融制度の研究のため渡米していた伊藤博文が、
4年の5月頃に帰ってきた。
が、硬貨の品質を確認するためならば、大阪造幣局で、渋沢栄一、伊藤博文、大隈重信がおり、そこへ五代友厚が入ってきた瞬間も実話なのやもしれません。


seiten3007.jpg

親睦の席で、五代に嫌いだと告白。
鳥羽伏見で負けたのではなく、既にフランスで負けていたことを語る。
が、五代にとっては誉め言葉であった。


seiten3009.jpg

栄一の悪い癖でも、魔が差したのでもなく、それが常識だった。


seiten3011.jpg

7月、議論ばかりの廟議に愛想をつかした西郷が、
まだ戦が足りんとし立ち去った。


seiten3013.jpg

井上馨は西郷の頭にあるのは廃藩置県だとし、
戦となるのを覚悟し踏みつぶすつもりだった。
が、栄一が、各地の藩札や負債の状況を調べ、流血させまいとする。
大変だった。


seiten3015.jpg

7月14日、廃藩置県を断行した。


seiten3016.jpg

岩倉は知らなかったようだ。


seiten3017.jpg

大久保が陸軍の歳費を800万、海軍は250万を要求。
廃藩置県後、歳入額が分からない中で出を決めるのはリスキーだと主張。
が、大久保の神経に触れ改正掛は潰されることになった。



seiten3019.jpg
NHKオンデマンド 青天を衝(つ)け


明治4年11月、渋沢市郎右衛門が他界。
幸い、看取ることもでき、父も満足の中、永眠する。




コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。