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鎌倉殿の13人 (16)「伝説の幕開け」

(2022日)


寿永2年(1184)12月20日、御家人たちのクーデター計画の見せしめに上総広常が梶原景時により殺害され領地が分け与えられる。


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仔細を知った義時の父時政は頼朝の矛先が自分に向くことを避けるため、
鎌倉に戻ることを決意する。
また、義時の子泰時の幼名を頼朝により「金剛」とされた。


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(岡崎義実 畠山重忠 千葉常胤  土肥実平 和田義盛)

法皇により頼朝追討の院宣がだされ、背後の義仲を討つべく、
総大将を範頼、戦奉行を梶原景時とし出陣、義経隊に合流することにする。

墨俣で合流したが、既に義経は義仲勢と小競り合いを始めていた。
範頼は自分が命じたことにし、義経を庇う。


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義仲から共に平家を滅ぼそうという文を受け取る。
義経は使者を斬り送り返すことで義仲をキレさせることにする。


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使者の首を受け取った義仲は激怒するも、冷静を取り戻し、
小細工があると用心。兵を分けての攻撃だと見抜くが、
義経の兵が少ないという偽情報までは分からなかった。


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寿永3年(1184)1月20日宇治川の戦いとなり、
既に人望を失っていた義仲勢は劣勢となり敗北となる。
義仲は、後白河法皇に一目お会いしたかったと伝え潔く去る。


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義経、入京し後白河と謁見。直ちに義仲と平家を討ち滅ぼすと口上。


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義仲は、巴御前に義高への手紙を託す。
近江粟津にて額を射抜かれた。


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法皇より和議斡旋の文が届けられる。
義経の油断させ討つ策だった。



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義経の言により三草山に敵に知られることを承知で入り、
具体的には現地の状況で決めることにするも、
梶原景時の鵯越から攻める案ではなくより厳しい鉢伏山とする。
景時は安全面から反対するも、馬と別に降りることとする。
義経も景時に容赦なかった。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


八幡大菩薩の化身、民間人虐殺の英雄、八幡太郎義家の悪霊を受け継いだ義経だった。






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