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鎌倉殿の13人 (37)「オンベレブンビンバ」

(2022日)


元久2年(1205)6月、畠山重忠が謀反を理由に討たれることとなった。
7月8日、政子により勲功のあった諸将に恩賞が与えられた。


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以後、地方からの訴訟は尼御台宛に送られることとなり、
時政が外されることとなる。


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阿野全成の4男時元が実朝の近習となった。
泰時は父義時に仕えることとなる。


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りくは、実朝から平賀朝雅へ鎌倉殿を移そうと企んだ。
まずは三浦を味方につけることとする。


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三浦義村が乳母夫となっている善哉が成人するまでの間、
平賀朝雅を鎌倉殿とするとのことで説得。


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畠山重忠の妻だった妹のちえに義時と政子は領地を遺した。
重忠との娘が島津家初代、島津忠久に嫁いでいた。
忠久の実父が頼朝という説もある。


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後鳥羽上皇は似絵が得意であり、又、地獄耳で鎌倉情勢を掴んでいた。


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平賀朝雅は時政から計画の文を受け取っていたが、
乗り気ではなかった。


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時政邸で密談。
実朝の近習となった阿野時元の言により現在、実朝は和田義盛宅にいるとのことで、
義村が迎えに行くこととなった。


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謀反決行となり、時政は御所へ行き、死んだ大姫のことを偲ぶ。
子たちと最後の団欒を楽しんだ。


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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人



鎌倉殿を平賀朝雅とする一筆を祖父時政は実朝にお願いする。
実朝も愚ではなく、義時や政子と相談すると動かない。
仕方なく、時政は刀を手にした。







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