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太平記 第45回~第47回

(1991日)


貞和5年(1349)、高師直は足利尊氏亭を5万の兵で囲む。直義の引退が条件で、尊氏と組んでいた。が、直義が拒否し討死承知で出陣しようとする。
そこへ佐々木道誉が来て、高師直は将軍までも殺めることを考え始めたという。
ここで、直義は降参し、義詮の後見人となることと、配下の安全を条件とした。

こうして鎌倉にいた義詮は入京することとなり、母登子は再会を喜んだ。
直義は朝廷寺社との実務に長け義詮に記録を渡したものの周辺に高師直派が固めており、直義の後見役の話は流れ出家することとなった。

一方、直冬は長門探題だったが、直義系の一斉パージにより役を解かれることとなる。
尊氏と会見し実の子と認め役を求めるも、尊氏はようやく認めたが、公にすれば人が集い義詮と争うことになるので認めないとする。ここで直冬は都を立ち去り西へ向かった。

翌年、直冬は大宰府の少弐氏と縁組を経、直義系の諸将の頭となり蜂起した。
討伐軍は尊氏と師直で行くことになった。
師直の愛人二条の君はかつて師直が拉致してきた前関白の妹だったが、
彼女は強かで師直に尊氏を討ち天下を狙うよう唆す。南朝に通じていた。

師直は直義暗殺を企んでいたが、直義は南朝に逃走し降ることにした。
南朝は受け入れ、直義がリーダーとなり反北朝軍を指揮することとなり京を取り戻した。


(45)「政変」
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(46)「兄弟の絆」
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(47)「将軍の敗北」
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NHKオンデマンド 太平記






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