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太平記 第48回~第49回 (完)

(1991日)


観応2年(1351)2月、南朝方となった直義の軍勢に尊氏は敗れる。
和議の条件に高師直の出家としていたが仇討ちを優先した上杉能憲に殺され、
尊氏は惨めに京へ戻った。

が、尊氏は将軍として堂々と振る舞い、論功の権は将軍にあることを確認し、尊氏勢の権益は守られることになった。


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が、その取り決めに不満だった桃井直常が白紙撤回を求め、細川顕氏、斎藤利泰を尊氏に求めさせたが、尊氏の振る舞いに敬服、親尊氏となった。
これに対して桃井が斎藤を暗殺。また直義派は高師直派の残党狩りを行い勢力を拡大する。
ここに、あまりの桃井の増長にキレた義詮が暗殺未遂。
が、失敗してしまったため、争いに発展することになった。


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直冬は鎮西探題を襲撃し九州に勢力を張り、信濃では将軍派の小笠原が直義派の諏訪と合戦を始める。そのような中、観応2年(1351)7月28日 尊氏が佐々木道誉を討つと東へ出陣、義詮は播磨の赤松が寝返ったと出陣する。


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不自然な動きに危険を察知した直義らは越前へ向かい兵を集める。


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尊氏と佐々木道誉2人は北畠親房と密会、幕府を認めることで吉野の帝を京へ戻すことで和睦し、直義と戦うことにした。直義を北陸回りで関東、鎌倉へと追い詰め、捕縛。幽閉する。


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が、桃井の軍勢がおり、また北畠親房が裏切り鎌倉に攻めてくるため、直義への再三の説得も虚しく、直義に菓子を与える決断をした。

文和3年(1354)12月、九州の直冬は南朝と結び、越中の桃井と都へ攻め上ってきた。
尊氏は京を離れ陣を構えることとなる。尊氏の病が進行し一色右馬介は単身、直冬の説得に向かった。


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が、直冬は聞き入れず、止む無く手を下そうとするところを斬られ絶命。
幼い頃、父親代わりでもあった右馬介が己への情のために斬れずに死んでくれたことが、直冬の尊氏への恨みを鎮めることとなり、直冬は都を去った。


延文3年(1358)4月、尊氏は道誉を自邸に招き能を楽しんだ。




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NHKオンデマンド 太平記




(48)「果てしなき戦い」
(49)「尊氏の死」(最終回)






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