50年戦争 イスラエルとアラブ 第5回 マドリード和平会議 ~インティファーダ 和平への波~ [歴史動画]
(1998日英)80年代~湾岸戦争後の1991年10月30日のマドリード会議まで。
イスラエルのシャミル首相はリクードの強硬派で、
PLOとの同席は、「礼拝堂に豚のようなもの」とまで表現した。
はじめ外相のシモン・ペレスが会議の枠組みを考えたが、
彼は労働党でリクードの首相が飲めるものではなく、
アメリカからの提案の形を取ることとした。
PLO自体は排除したが、パレスチナを代表する者を参加させた。
とはいうものの、会議の席は穏やかではなかった。
自ら乗り込んだシャミル首相は、シリアのテロを非難し、
シリアの外相は、シャミルが1948年の国連調停官殺害テロに関わってたことを
持ち出した。
会議前はシャミルがユダヤ人入植地建設のための金策をアメリカに要請したが、
和平交渉を潰しかねないとし、ブッシュ大統領が拒否した経緯もあった。
苦難の末のマドリード会議の冒頭が荒れて、
第5回は終了する。
https://www.youtube.com/watch?v=Zb8IDdLzl_Y
イスラエルのシャミル首相はリクードの強硬派で、
PLOとの同席は、「礼拝堂に豚のようなもの」とまで表現した。
はじめ外相のシモン・ペレスが会議の枠組みを考えたが、
彼は労働党でリクードの首相が飲めるものではなく、
アメリカからの提案の形を取ることとした。
PLO自体は排除したが、パレスチナを代表する者を参加させた。
とはいうものの、会議の席は穏やかではなかった。
自ら乗り込んだシャミル首相は、シリアのテロを非難し、
シリアの外相は、シャミルが1948年の国連調停官殺害テロに関わってたことを
持ち出した。
会議前はシャミルがユダヤ人入植地建設のための金策をアメリカに要請したが、
和平交渉を潰しかねないとし、ブッシュ大統領が拒否した経緯もあった。
苦難の末のマドリード会議の冒頭が荒れて、
第5回は終了する。
https://www.youtube.com/watch?v=Zb8IDdLzl_Y
2017-06-05 23:21
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