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その時歴史が動いた 信長 執念の天下統一 〜大坂本願寺との十年戦争〜 [歴史動画]

(2002日)秀吉が大阪城を築く前は、本願寺の拠点だった。
1568年に信長が浅井長政と共に上洛し、足利義昭が15代将軍となる。
義昭から副将軍や他の地位も示されたが拒否した信長の目的は
「天下布武」だった。

まず、大阪本願寺に矢銭5千貫と退去を要求した。
むろん受けるはずがなく、血みどろの戦となる。
このころは、義昭と信長の関係は部分的な対立関係はあっても
共同歩調をとっていた。

1570年に、上洛を拒否した朝倉を潰すつもりだったが、
浅井長政が裏切り、「金ケ崎の戦い」から脱走した信長は、
浅井・朝倉と「姉川の戦い」に突入した。

この頃の「信長包囲網」は浅井朝倉の他、三好三人衆、延暦寺、
荒木、六角、筒井など名を連ねる中に、もちろん本願寺も加わった。

が、1571年には将軍義昭が「御内書」で反信長を呼び掛けた。
甲斐の武田信玄、雑賀・伊賀・甲賀の忍者も加わった。

が、1573年に信玄の死により、浅井朝倉の滅亡。
1574年に義昭は京都を追放される。

大阪本願寺は頑張っていた。食料不足で困った際は、
義昭経由で毛利輝元に援助を申し出て、村上水軍が1576年に成功した。
この時の海上輸送を妨害するのに失敗したのは村上水軍の兵器だったが、
これに対して、信長は改善を行い、1578年の輸送に対して九鬼水軍は鉄甲船を準備し、本願寺の輸送路は断たれることとなる。

この状況にて1580年に信長は「勅命講和」を使って本願寺を退去させた。
が、息子の教如が抵抗。放火までしたようだ。
この流れが後の東本願寺となり、数々の「武勇伝」で存在理由が問われることとなったようだ。


信長・石山本願寺との10年戦争・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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