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鎌倉殿の13人 (7)「敵か、あるいは」

(2022日)


治承4年(1180) 8月17日に挙兵した頼朝だったが、目代山木兼隆は討ち取ったが、
石橋山の戦いで敗走する。


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(後白河法皇 丹後局)

福原に構えたばかりの平清盛にとって、頼朝の挙兵は縁起でもなかったのしょう。
が、石橋山での勝利に喜び、教唆したと思われる後白河法皇に報告してあげた。


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(平清盛 宗盛)

宗盛から頼朝が生きていると報告を受ける。


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(北条義時 梶原景時)

義時は和田義盛と上総広常の説得を試みるも梶原景時もいた。
損得を示すよう広常は求めた。
景時は左衛門尉という官位を約束する。悪くはなかった。
義時は、板東坂東武者の世をつくるためとした。


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千鶴丸の死を知った八重は父伊東祐親を問いただした。
祐親は自白。兄祐清は父が断腸の思いだったと理解しろと言ったが、
理解できるはずはなく、出ていこうとする。
が、戦が終わるまで閉じ込められることとなった。


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伊豆山権現にいた政子たちに仁田忠常が頼朝の文を届けてくれた。
無事を喜ぶも、北条の妻たちであることを知った僧兵が伊東へ引き渡そうとする。
醍醐寺で出家していた頼朝の異母弟阿野全成が来ており、
共に逃げることとなる。実衣との劇的な出会いだった。


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頼朝は鎌倉への道中、上総広常の館近くで劇的な出会いがあった。
そこへ漁師の夫が夜襲を仕掛けてくるが、隠れることができた。


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同時に、大庭景親の命を受けた安房の豪族長狭常伴の夜襲と重なり戦闘となる。
義時は上総常広に頼朝の運を知るためと幽閉されていたが、
これで頼朝が天に護られていること広常は実感する。


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千葉常胤が頼朝に義朝を重ね感激。
平治の乱で父義朝の身代わりとなった源義隆の遺児頼隆を育てた。
虐殺で恐れられた義家(曾祖父の父)を同祖とする河内源氏の親類だった。
よって千葉を「父」としたのでしょう。


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遅れて上総広常が公称2万の軍勢を連れてきた。
が、頼朝は「帰れ」と一喝。遅参する者など戦場では役に立たない、
軍勢を見て敵にすれば恐ろしいが、だからどうした、
礼儀を知らぬ者とは天下草創の志を同じくできない、
自分の値を吊り上げてるのか、笑わせるな、と言ってみせた。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


場合によれば頼朝の首を大庭に持っていくつもりだった広常だったが、
丁重に詫び、身命を賭して頼朝に仕えたいとした。






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