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鎌倉殿の13人 (22)「義時の生きる道」

(2022日)


建久元年(1190)11月9日、頼朝は上洛、後白河法皇に謁見する。
頼朝は軍勢を法皇に見せつけた。


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法皇は、我らを亡き者とするならば、この日ノ本が治まらん、
やれるものならやってみるがよい、と凄む。


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大姫を後鳥羽天皇に入内させたかったが、
先に、太政大臣九条兼実の娘が中宮となっていた。


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御家人で飲んでいたが、頼朝が来ず不満がやや流れる。
大江広元は都落ちだと嘲られてたので、ご満悦だった。


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別の席では頼朝に従っていても恩賞が増えないと、不満が増大していた。
が、頼朝の弟範頼や万寿を預かっている比企能員もいるので、
具体的なテロ計画には発展しなかった。


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が、2人になると、その比企能員は範頼が鎌倉殿ならばと、
謀反の意思を確認する。
範頼は、兄あっての私、と窘めた。


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建久3年(1192)3月。
11の後鳥羽天皇だったが、祖父の死を毅然と受け止める。


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同年7月、大将軍を要求し征夷大将軍となる。


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8月、後の実朝となる千幡が誕生し、全成夫妻が預かることになった。


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千幡が北条に預けられた対抗意識により、
比企は姪の比奈を頼朝に仕えさせることにした。
が、政子を恐れ頼朝は八重亡き義時にとするも、義時は帰らせた。



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NHKオンデマンド 鎌倉殿の13人


伊東祐親の長男祐泰が工藤祐経に殺害された恨みを息子2人が晴らそうとしていた。
北条時政が烏帽子親となり仇討ちは賛同し北条の兵が動くことも承知していた。
が、曽我十郎と五郎の兄弟はそれを利用し頼朝殺害計画を進めた。
比企能員は計画を打ち明けられ、どちらに転んでもと喜色を隠さなかった。





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